録画していた『いだてん』を家に帰ってポツポツ観てる。落語の噺を引用しながら進む物語の展開も愉しい。物語の中心である明治後期と、東京オリンピックの時代がこれからどのようにつながってくるのか、いくつもの伏線も気になる。
だから余計に出演しているピエール瀧さんの件は残念。だけど、今、いろいろ話題になってるみたいに、関わった作品がお蔵入りになったりなかったことにされるのは不思議だ。電気グルーヴの楽曲は当然、石野卓球さんのモノでもあるし、アーティスト以外にも、エンジニアやスタッフたちが関わっている。語弊があるが、映画やドラマに至っては、出演者の1人に過ぎない。その1人のために作品が上映されないという判断は理解できない。というか、そう判断をさせなければならない世論という考え方が不自然だ。だから「麻雀放浪記」の新作が公開に踏み切るのはとても良いことだと思う。観る側がそれを受け入れるか受け入れないかを選べばいい。個人的にはこういった芸能人的なニュースをネタにして長々と報道する意味がよくわからない。気になるといえば、電気グルーヴの楽曲が配信されているサイトなどで配信停止されているらしいこと。Apple Musicでダウンロードしたものでさえ聴けなくなってるというニュースを見ると、そのことこそ考えねばならないことなのだと思う。個人的には『作品には罪がない』という安易な言葉しかみつからないが、作品は作品だ。
前回の日記で、募金は、その募金の内容云々ではなく、その人自身にお金を渡せるかどうか、が自分の中で重要かもしれない、と書いたけど、音楽や映画、ドラマや小説など、何かの作品にお金を払うとき、僕は作品に対価を払うわけで、そこに携わる製作者へ個人的にお金を払うわけではない。もちろん、お金を支払うことで製作者に還元されることは想定するからこそ、きちんとお金を払いたいとは思うけど。あくまでも作品に対して支払うわけなので、製作者がどんな性格だろうがなんだろうが気にしないし、健全でアレとも思わない。そのあたり、『芸能人は見本であれ』的な見解はそれ自体。考えなければならないことであるけれど、それをなんとしても強いる世論・世間のあり方こそもう一度考えなければならないと思う。つまり受け手側。
そんなことも考えつつも、岸田戯曲賞が発表され、改めて松原俊太郎さんの『山山』戯曲を読む。地点が上演した作品とは舞台とは切り離して考えるべきだろうけど、こうやって戯曲単体として『山山』が受賞したことは、またなんとなく演劇表現について、新しい展開があるようにも感じつつ。しかし、そうは言っても僕は最近、まったくお芝居を観れてないからなぁ。
今日は午前中、家族で少し下北沢を散策。駅前はだいぶ様変わりをし、工事も徐々に終わりが近づいてきている。線路がなくなった分、広く感じる。踏切と、入り組んだような路地にお店があった下北沢の駅前の雰囲気がなくなり、広場のようになっていて、整ったような空間はなんというか味気ない。広場ではバンドの人が演奏していて、やがてそれはそれでいずれ『下北沢』として風景におさまっていくのだろう。
風がとても強く吹いていた。東京は桜が開花したという。春一番が吹いたよう。そろそろ厚手のコートがいらなくなる季節。春は目の前。