東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『サマーフィルムにのって』

朝、肌寒さで目が覚めて、寒すぎて開けていた窓を閉める。8月とは思えない。二度寝した後、8時少し前に目覚めて、仕事にでかける準備。今日も長袖シャツで仕事へ。車で出かけるがさすがにいつもは混雑している道路も空いている。

午前中の仕事が終わり、メール作業などをいくつかしてから、新宿の武蔵野館へ。久しぶりに映画館で映画を観る。『サマーフィルムにのって』。

映画が誰のものか。偏った考え方をすれば、監督のモノであるともいえる。以前に、とある映画監督の方が、「映画は1人のクリエイターである監督と、あとはその監督の創作を手助けするための優秀なスタッフがいればいい」というようなことをおっしゃっていた。極端かもしれないが、それも一つの意見。『サマーフィルムにのって』の中では、映画は圧倒的に監督のものだった。監督は直観でキャスティングをし、脚本を書き換え、撮影を遅らせ、果てには、上映中に映画を止めてエンディングを変更する。それが許される特権が監督にはある。今、現実的に、こういった特権性が認められる監督はどれほどいて、それを許せる環境が映画業界にあるだろうか。映画が芸術か商業かはこの際、置いておいて、その特権性こそが、映画を映画たらしめているのだと思う。

『サマーフィルムにのって』は潔いほど多くのことを端折っている。多くの出来事に理由付けはされない。登場人物も映画製作に関わる人たち以外は出てこない。主人公の家族たちさえ出てこない。つけたあだ名の由来もわからないし、なんなら本名さえ出てこない。スタッフとして監督を支える仲間たちが映画製作に加わる根拠も誘われただけのように描く。彼らにも意志はあるのだろうが、そこは大胆に端折られて、彼らは監督の手足に徹する。そうやって、ただ、ひたすら『映画を作る』姿だけに絞り、純度高く、濃密な時間が過ぎていく。映画のクライマックス、突如として多くの人たちを巻き込んだ殺陣が始まるが、なぜ、あれほどの見事な殺陣をいきなり演じられるのかということはこの際、どうだっていい。劇中の映画監督がそうだったように、この映画を撮った監督は、撮りたいシーンだけを徹底的に切り取っていく。監督役の少女が次々とぶった切り、カメラ目線に言葉を発する、その痛快さだけを追い求めて。

スケジュールと予算の都合もあったろうと思う。季節感や天気がつくづく残念だ。真夏のじりじりと暑さを感じる季節にこの映画のロケがあったなら、もっと画面が夏だったろう。どこか寒々しい季節感を感じてしまう風景や、雨っぽい空模様の中で撮られた画を観て、残念に思えてしまう。なんならいっそ、もう一度、監督がわがままを言って全部のシーンを夏に撮りなおしてほしいとさえ思う。そういうことが許されそうな映画だ。

蛇足ながら、憶測として、上映された自主映画作品のクレジットの中で、沖田修一監督をもじったような名前がでてき気がしたが、あれはもしかすると『キツツキと雨』のオマージュなのかなと穿った見方をしてしまった。あの作品もまた映画監督が作品を自分のものにする物語だ。

映画を観えてから、嫁と娘と合流し、ファミレスで食事。それから家に帰って筋トレなど。で、娘と録画していた『古畑任三郎』を観たり。雨はやまないばかりか、ますます強くなる。で、肌寒い。いつまで続くのだろうか。