東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『その男、凶暴につき』

目が覚めると、すでに9時半を過ぎていた。だいぶ寝坊。朝起きて、御飯を食べて洗濯。

それから、切れてしまった電灯を交換したり、掃除。それから物置となっているガレージの掃除。舞い込んできた枯れ葉を掃いたり、少し雑多になったものを整理したり。あと草むしりなどもついでにやる。待機中の余裕がある時に、できるだけ掃除。

 

嫁も娘もすっかり熱は引いて、多少、嫁が咳をするものの、娘は元気。まだ、一応、用心で隔離しながらの生活をしているものの、こうなってくると待機というのも一体なんのためにと思えてしまう。外に出たいが仕方がない。

 

仕事でご縁がある方から連絡。お子さんが大病で入院をしていたのだけど、今年の4月から大学に入学して上京しているとのこと。元気な姿の写真も送ってくれた。「何が起きるかわからないから、やりたいということをやらせたい」とおっしゃっていた。笑顔の写真が良いなぁと思う。

 

午後は、整理した物置から引っ張り出した本を読む。昨日、北野武監督の「3-4x10月」を観て、その後、youtube北野武監督の作品を、語るトークショーの動画を観た。「kids return」撮影後の特集上映の際のトークショーのような形で、侯 孝賢監督や、蓮實 重彥さんもいらっしゃる。蓮實 重彥さんは北野監督の作品を、漫才が出自の北野武さんの映画は、どこか落語のようだとおっしゃっていた。「ソナチネ」について、北野さんが、ヤクザが沖縄に逃げて、そこで何もすることが無く過ごすという設定をつくるため、あまり撮ることを決めずに、沖縄に行ってから撮ることを決めようと自分の追い込んだ、ということを語っていた。そうなのかと思いつつ、今日、物置から引っ張り出した本の中から、奥山和由さんインタビュー集「黙示録」もあり、改めて北野武監督について語る部分を読み直す。深作欣二監督と仕事をしたかった奥山さんが、深作監督、ビートたけし主演で、映画の企画をするために奔走しているうちに、諸事情(細かく読むとこのあたりもだいぶ面白いのだけど)で、いつの間にか深作さんが監督を降り、北野武監督、ビートたけし主演で「その男、凶暴につき」を撮るようになったあたりや、「日本版のダイハード」を撮るという約束で制作費5億を用意した結果、まったく「ダイハード」とは異なる作品として「ソナチネ」ができたこと。ただ、まったく走り出しと違ったはずの「ソナチネ」が本当に素晴らしく出来上がりつつも、それが完成したタイミングで、北野さんと奥山さんに距離ができてしまったことなど、奥山さんの言葉で語られるエピソードは興味深い。

 

改めて読み返して、「その男、凶暴につき」が一度、ビートたけしさんのフライデー襲撃事件でとん挫しかけた際、少しだけ、主演松本人志さんで動き出そうとして、結果、それが無くなっていたのもなんだか興味深い展開だった。その後、「その男、凶暴につき」を北野監督で撮り、脚本からすべてを北野監督が担った「3-4x10月」が作られ、賛否(大島渚監督が「3-4x10月」を観て、2作目は概ね、こういった形に陥るが、3作目は名作が生まれる、的なことを奥山さんに語ったのも今となると凄まじいエピソード)が出た後、第3弾として「ソナチネ」が作られる。ただし、奥山さんプロデュースはそれで終わり、ヨーロッパでも高い評価を得た北野監督は、あえて、次の作品は、ビートたけし名義で「みんな~やってるか!」を撮る。その後、オートバイでの事故を起こした武さんは生死を彷徨った後、「kids return」を撮る。昨日、僕が観た北野作品を語る座談会映像は、時系列でいえば、その後で、北野さん自身が死を描きすぎて、その反動(もしくは振り子の原理)で、「kids return」は生について描いた、というようなこともおっしゃっていた。

 

今日は、山田洋次監督の「キネマの天地」を観てから、北野武監督の「その男、凶暴につき」を観た。杉田俊介さんの「人志とたけし」の北野さんに触れている箇所も再読。主に映画作品を参照しながら、北野武監督の笑いについて語る。

 

たけし/武は、自己破壊的な行為によって自らを刷新し続けてきた。それはその場ごとに無限に反復=変奏されるものであり、一度きりの「死と再生」という聖人的な物語には還元されえないものなのではないか。

 

降ってわいたような映画監督の機会。それで完成した「その男、凶暴につき」。インタビューでもぽろっと言っていたが、映画監督の困難さはあった。奥山さん自身でさえもやりづらかっただろうと語っていた。それを経て、すべてを自ら作り出した「3-4x10月」。そこでの賛否から、ギリギリまで自らも追い込んで作り上げた「ソナチネ」。奥山さんのインタビュー集を読むと、プロデューサーの立場から見た「ソナチネ」もあり、仕事柄、お金を集める立場の過酷さも知る者として、どちらの立場も分かるものの、北野作品は「麻薬のようなもの」と奥山さんの語る言葉は、プロデューサーにさえ、そう言葉にさせるほどの魅力が「ソナチネ」にはゆるぎなくあることの表れだと思う。

 

映画の中で、繰り返し、死ぬ役を演じる武さんは、文字通り、映画の中で繰り返し、何度も死と生を行き来しているのではないだろうか。以下、杉田さんの本から引用。

 

芸能とは、人間の「業」としての無力さとの戦いであり、それを人間に強いる理不尽なこの世界=神々(自然)との戦いでもあるのだろう。するとある側面では、芸能とは、人間の心身によって神を擬態し、演戯し、憑依しつつ、神を象徴的に殺そうとすることなのではないか。

 

芸能による象徴的な神殺しという純粋なパフォーマンスは、神が自らを閉ざし引きこもった天岩戸をも開くものだろう。それは戦争と政略ではない。いわば、遊びとしての神殺し、と言ってもいい。それは沈黙と共にある「べしみ」的な抵抗の形とも微妙に異なる。芸能的革命としての笑い。非暴力でも脱暴力でもなく、暴力の矛盾をその神話的根源に遡って捩じ切り、暴力そのものを歌と踊りと歓喜の中に浄化するようなパフォーマンス(超暴力)である。

 

ということで、今日もなんやかんやとゆっくりとできた一日。