東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

「いまの身体」

台風一過とはよく言ったものだ。今日はからっと晴れた。
湿度も少ないし。それにしても埼玉の熊谷は37度くらいまで上がるらしい。
それは体温だよ。もう。

以前、役者の演技で、「素でやる」ということの無責任さについて下手ながら書いたけど、宮沢章夫さんがホームページ上で、異なる切り口で演技することについて書いてあり、非常に刺激を受けたので引用してみたい。

『「芝居をするな」としばしば僕は稽古場で口にするが、厳密に考えると、この言葉をはかなりあやうく、説得力があるようでいてないような気もし、
「でも、やっぱり、芝居ですよねえ、なにかするわけだから」といった反論があってもよさそうだ。あるときのワークショップで参加者から、「素でやるということですか」と言われた。「素でやる」とは、つまり、ふだんとまったく変わらないような状態で舞台にいるということだろうが、そんなことができるものならやってみろと言いたい。
 不可能なわけですよ、「素」なんてものは。しかし、「芝居をするな」を説得力のある言葉にしようと思って、どうしてそうしなければいけないのか、どうやればいいか、演出の段階で様々な言い方をしてきた気がする。重い箱を二人で運ぶという芝居がある。いかにも重そうに運ぶとき、それは芝居になるが、だったら、ほんとうに重い箱を運べば芝居はしなくていいことになる。従来ならそんなものは演技とは呼ばない。むしろ、重そうに演じることをどう上手にやるかという、「芸」の見せ方が演技だった。だが、なにもしていないように見せることもまた、「演技」であり、それが、「またべつの技術」だと最近では考えている。
 で、これをわかつのはなにかだ。
やっぱりそこには、「演技」はなんであるのかという意識の差異と同時に、身体のちがいがある。
「いまの身体」ということだ。』

つまり、役者の身体、演技をするということの質のようなものが、新しい価値観の時代が来ているのではないか。芝居の物語だけでなく、役者の演技という面でも、近代からポストモダンへの移行のような変化が起こっているということか。しかし物語のポストモダンへの移行は確実に進んでいるのに、
役者の演技についての価値観の移行は、そんなに進んでいないように思える。それは役者を取り囲む環境だと宮沢さんは言う。

『たとえば、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が「できる人」とは、モチベーション、つまり、やる気があるからできるのではなく、「できない人」にやる気がないかといえば、そういうわけではない。できる人も、できない人も、ともにモチベーションは高い。
モチベーションの低い人は問題にしていない。そんなやつはべつに俳優になる必要がない。義務教育じゃないんだから、さっさと稽古場から出て行けばいい。だから、「あなたは水の上に浮かぶ木の葉です」が、ばかばかしくてやってられないという感性はきっとある。僕はそうだ。で、問題は、そう
いう感性を許さないところが、演劇の教育や訓練にはあるところだ。その「感性」が、「いまの身体」のひとつの側面だろう。僕はそう感じる。そこに、演劇のかかえる困難がある。演劇はある一定の期間、同じ場所に全員が揃っていなければいけないという集団的な表現だ。そのことから規制される問題は様々にある。それができるかどうか。「いまの身体」はそのことに耐えられるのか。』

役者のワークショップでは今でも上記されているようなことをさせるところもある。それをヨシとする人もいるから、一概には言えないが、どこか感覚のずれがある気もする。ヨシとしない感性を持つ人は、その場から立ち去るしかない。役者を学ぶところは、なかなか多くない。そういう状況の中で、どのように役者の演技を考えるか。これは演劇だけのことではない。次に引用するのは、ダンサー兼振り付け師の桜井圭介さんの文章だ。


「『ダンス』というものは本来的には陶酔、高揚(忘我的恍惚状態!)のかたちであり、20世紀モダン・アートとなってからは疎外や抑圧あるいはトラウマを起点とする(危機に立つ)肉体の声であり、いずれにせよそれは『せっぱ詰まった』身体のための形式です。ところが、今、我々の立たされているポスト・モダンという場所、それは『どうやってもせっぱ詰まれない場所』なわけですよね。欲望の枯渇、ありていに言えば『夢見たい風景がない』という状況。だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない。にもかかわらず、依然として“ダンス”する、つまり“せっぱ詰まったフリ”をするのが、日本のコンテンポラリー・ダンスなのです。それは、『終わりなき日常』を生きる覚悟がない者が無理やりにリアルを虚構する(オウムや326!)ようなもの、さもなければ、いちおうの状況認識はあるのだが、自分の手持ちのツール(ダンス)がこの状況下では完璧に使用期限切れであることに気付かないバカ者、のいずれかでしょう」

 そういった空間でどのような立ち方があるか。そう考えてゆくと、「芝居するな」は、「既成の演技しているという状態」からいかに逃れるかという言葉だと思う。そもそも、「その演技の体系」と、いまの俳優の身体は、どうしたってずれている。それを無理するから、なにやら「気持ちの悪いもの」がそこに出現する。ただ、その状況のなか、「だから『この場所』での表現は『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』をこそ切り取らねばならない」としたらそれはどのような表現になるか。まだ僕が認識できる範囲にあるとすれば、完全に、「近代」と切れているとも思えず、ともすれば演出の段階で、「旧来の演技系」の単なる変形に「いまの身体」をあてはめている気もする。
 なんだか、近代はぶあつい。
「『リアル(=せっぱ詰まること)がないというリアル(現実)』を切り取る表現」それはどんな姿をしているのか。「いまの身体」をきちっと理解できていないのかもしれない。

近代から流れるものを断絶するではなく、しかしやはり、かつてあったものとは違う「いまの身体」を考える。そこから役者を考える。そこから物語を考える。