夜勤だ。今週は変則的で今日が夜勤。あさっても夜勤。
こうなりと僕は、今週はもう日勤がない。正確には日曜日が日勤だけど、正規の日勤は来週の月曜日までない。だから一緒に働いている人とも、引継ぎの少しの時間しか会わない。これはこれでなにやらおかしな感じだ。
夜勤だと、日中が有意義に使える。
だけどあんまり有意義には使ってない。基本的にはダラダラしている。
そういえば結婚した先輩を祝う映像の撮影会を7月3日にやろうと予定している。脚本を書いているが、これがつくづくくだらない。俺はくだらないことが好きなんだなぁ。まぁそれもよし。あとは雨が降らないことをひたすら祈るのみ。
平日の日中が空いていて、得したと思うことの一つにNHK教育テレビを見れることがある。NHK教育テレビの番組は面白い。
僕のお気に入りは「ピタゴラスイッチ」と「日本語であそぼ」だ。
この二つは本当に面白い。子供じゃないけど面白い。
今日見ていて面白かったのは「くらし探偵団」という番組だ。
世の中のいろんな仕事をえなりかずきが紹介するという趣向の内容だ。
今日の働く人は「配水管の水漏れを確認する仕事の人」だった。
全国の各市町村にある配水管の内、だいたい平均して全体の8.2%くらいづつは水漏れしているらしい。しかし福岡県福岡市は水漏れが2%しかないそうだ。これは全国平均をかなり下回っている。それは福岡県の水道局の「配水管の水漏れを確認する仕事の人」の不断の努力の成果らしい。
彼らの仕事は、音の伝導を伝えやすいのか、細い鉄の管のような棒を地面に当てては、その下を通っている配水管から水が漏れていないかチェックするらしい。その棒を持ち、毎日市内のいたるところを歩いているそうだ。音が重要なので、騒音がうるさいところは夜に行くらしい。なんて地味な仕事なんだ。しかしこれが非常に重要で、一箇所水漏れが見つかると、場合によってはあるダム一箇所分くらいの水が無駄になってしまうこともあるらしい。地味なのに責任は重い。そのうえ水漏れしてそうな場所を発見したら、そこの道路を破壊して配水管を掘り出さないと修理できない。つまり水漏れが勘違いだったら、道路を破壊したことも、破壊するために呼んだ工事の人々も無駄足になってしまうのだ。地味なのになんて博打的要素の高い仕事なんだ。
驚くことに、水漏れの音と水漏れしていない音を聞き分けるのに10年くらいかかるらしい。この仕事、地味なのに敷居はやけに高い。これほどハイリスクな仕事が世の中に人知れずあったことに驚きを感じた。彼らが街を歩く姿は地味だ。しかし彼らの背負っている役目は重大だ。蛇口をひねると水が出るのは、彼らのおかげなのだ。それにしてもこの仕事をしている人が、息子に「パパはなにしてるの?」と聞かれて「水漏れの音を聞いているのさ」と誇らしげに言ったとて、果たしてどれほど理解されるのだろうか。息子には、父親の偉大さを十全に理解してもらいたいと、勝手に願わずにはいられない。
そんなことを25歳にして僕に思わせてくれたNHK教育テレビはすごい。
話はいきなりすごく変わるけど宮沢賢二の詩「雨ニモ負ケズ」とJ.D.サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」の主張は似ていると思った。前述した「日本語であそぼ」で「雨ニモ負ケズ」を朗読しており、それを聴いてふと思いました。
「ライ麦畑でつかまえて」はアメリカ青春小説の代表作の一作。その中の主人公ホールデンコールフィールドが自分がやりたいことを言う台詞だ。
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦畑かなんかがあってさ、そこで小さな子供達が、みんなでゲームをしているところが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。誰もって大人はだよ。僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立っているんだ。僕の仕事はね、誰でも崖から落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」
で、次が「雨ニモ負ケズ」の抜粋
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
だからなんだってわけじゃないんだけど、僕はこの二つに似たものを感じまして。つまり、なんと言いますか、「世界が全員、そっぽ向いても、僕は君をみている」と言っている気がするんです。とは言っても、ぜんぜん偽善じゃなくて。だいたい彼らのやりたいことって、それを受けた当事者ですら「だからなんだよ」って思えそうなことだし。なんというか、それはでも、僕もそうでありたいと思うのでして。例えば僕を頼って誰かが来てくれたとして、でも僕はぜんぜんお金もないから、何もできないと思うんです。だけど僕は、僕を知っている誰かが僕を頼って助けを求めてくることがあるときのために、僕は今まで僕の人生にかかわってきた人たちのことを覚えておこうと思うんですね。何ができるかは、別だけど。覚えておくこと。その人の幸せを少しでも願えること。偽善て思われたら仕方ないんだけど、僕はできるかぎり、そういうことをしていこうと思っています。この2つを見て、言ってることにぜんぜん実利はないけど、僕からしたらすごくいいんじゃないかと思ったりもするのです。