東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『更新と肉付け』

■ 昨夜、テレビでやっていた『スターウォーズ ジェダイの復讐』を見た。すくなからず最近のスターウォーズ騒ぎに僕も浮かれている次第であります。現在は「ジェダイの帰還」にタイトルが変更になったと聞いたけど今回は『復讐』のままだった。なぜだ。


■ 今更なのかもしれないけど、この映画のラストシーンが変更されていることを知りました。反乱軍が勝利して、それを祝っているラストシーン。死んだはずのヨーダ、オビワンとアナキンがルークの前に現れる場面がある。当初、そのとき出てくるアナキンはダースベーダーを演じたデヴィッド・プラウズがそのまま演じていたが、新しくなったものでは新3部作でアナキンを演じたヘイデン・クリステンセンがとって変わってその場所にいる。どうやらこれは新たに発売された「スターウォーズ トリロジーDVD−BOX」から差し替えられたものらしく、アマゾンのこの商品のコメント欄にもこの差し替えに賛否両論の意見が載っておりました。


■ ようするに映画の中でも時間が経過しているはずなのになにゆえアナキンだけ若いままででてくるのか(オビワンは新3部作のユアン・マクレガーではなく、旧3部作のアレック・ギネスなわけだし)とか、いきなりルークと同世代の若いアナキンが登場したらさすがにルークも「誰だ?」ってなるはずだとかいう批判の声があり、一方で「エピソード3」を観たらあれはヘイデンが出てくることに納得できる、スターウォーズが映画として完結するにあたり、全編通じてさらにつながりを持たす(新と旧の物語により強度な相互性を持たす)ために旧3部作に手を加えることも頷けるというような肯定的な意見もあり、まぁいずれにせよ物議を醸しているのでした。


■ 最近、映画館で上映されたあとに「完全版」といった触れ込みで新しい映像が加わったり、諸事情でカットしていた映像をつけ加えたり、逆に削ったりした作品が発表されてDVDとして発売されることがよくある気がします。まぁ最近じゃなくても例えば「ブレードランナー」は完全版とか最終版とかいっぱい出ていたし。別にそれ自体は否定するものではないわけで、結局は観る側がその結果完成した作品をどう捉えるか自分で判断すればいいのだと思います。


■ ただ一つ理解しておく必要があるなと思うことは映画という表現媒体においてこういう「更新」という作業が可能であるということだと思います。それは演劇の「再演」とはまったく異なる性質を持っていて、言い換えると「更新」はパソコンの「上書き」にすごく似ている気がします。もちろん映画にもリメイクというものがあり、これは「再演」と似ていると思うし、演劇も公演期間中に部分的に演出や内容を変更するということも可能ではあるけれども、そういうことともこの「更新」はどこか違う気がする。これって映画以外の他の表現媒体ではなかなか難しいのではないだろうか。


■ このようなことが可能であるというのは映画という表現のメリットであると思う。ただどんなに技術が発達しても過去の映像に新たに何かを合わせるとどうしたってずれが生じる。仮にズレがなくなって映像として完璧に合わさったとしても、「更新」したという事実が観客側に認識されている時点で、観客としては「それ以前の作品」と「新しい作品」の2つを知ってしまっているわけだからもはやまっさらな意識では見れないと思うし。まぁそういう弊害があることを踏まえたうえで、製作者側がそれでもそれをするかどうかなのだけど、少なくともそういった「選択」の余地があるというわけだ。


■ まぁしかし今回のことでいえば、この「ジェダイの復讐(帰還)」が制作された当時、ヘイデン・クリステンセンは生まれていなかったか生まれてまもないわけで、そんな時代の映画にふらっと登場しているっていうことはなんだかおかしな気もする。まぁそういったことは「気にしない」というのが無難な立ち居地なのかもしれないけど。


■ 昨日は夜勤明けになんとはなしに秋葉原周辺をぶらついた。と、駅前になんだか巨大なビルが建っている。秋葉原は面白い街だと思う。極端な街だ。かつて電気の街だった面影を残しながら、今は漫画やアニメ、同人誌、ゲームといったものに特化した街になっている。そういったものが目に見える形として街を形成している。どうしたって目に付く看板や建物。そこに集まる人の「目的」によって街が変容していく。こういった形で街が形成されているのは他に例をあげると新宿の歌舞伎町とかではないだろうか。


■ その時その時の「イマ」が街を形作る。それは一本の軸になる柱にどんどん粘土をくっつけて「肉付け」していくようなものではないか。上記した「更新」はそれ以前をまっさらにしてしまうけれど、「肉付け」は過去を断絶しない。過去の上に「イマ」が付け加えられる。秋葉原はにぎやかな電気街の中にも昔からある民家、喫茶店や食堂がある。その部分は神田や神保町に近い雰囲気を持ちつつ、一方で電気の街としての顔も健在、で、さらにゲームやアニメの街という顔も持っている。秋葉原をぶらつくとそういった時間的な流れを肌で感じられる。そういう風に作られる街が好きだ。


■ 一方で恵比寿のガーデンプレイスみたいにあらかじめ決められた設計によってその空間がまるごと作られた街や土地もある。お台場なんかもこっち側だと思うし、そういう街の代表例は渋谷のセンター街だろう。そこは日本とかその土地の磁場や時間にとらわれずにいきなり現れる。それでもセンター街やガーデンプレイスが成り立っているのは、少なからずその土地にふさわしいものを作ろうとした(もしくは逆で、その作られた街が新しい磁場を作った)からなのではないか。(お台場はなにせ埋立地なので、歴史も時間もふさわしいもふさわしくないもないんだろうけど。)


■ しかし秋葉原の駅前に現れた巨大なビルはなんだか不似合いだ。時間的に連動されている街に突如、時間と土地を無視して現れた感じだし、その上、秋葉原にふさわしい建物と僕には思えない。どっちかというと品川にありそうなビル。だから品川にあればよくて、秋葉原には要らない気がする。どうしてこんな建物を秋葉原に建てたのだろうか。きっとこの建物を計画した人は秋葉原という土地を知らないのではないか。もしくはもうすぐ秋葉原に新しく開通する首都圏新都市鉄道(別称つくばエクスプレス)というひどく硬い響の第三セクターの鉄道が開通するにあたり、一気に秋葉原の駅前を変えようとでも思ったのか。確かにJRの線路を挟んだ向こう側にもいつの間にか超巨大な建物(ビックカメラとか書いてあったけど駅ビルなのかもしれない)が建設されており、そんな感じはする。しかしこれまたなんとも今までの秋葉原のオーラを感じない建物だ。


■ 別に秋葉原に思い入れがあるわけではないし、どっちも否定しないけど、この巨大なビルをかつてから秋葉原に住んでいたり、通っている人は待ち望んでいたのか疑問だし、必要なのかどうかも判りかねる。まぁこうやって突如、街の姿が変わるということも街の変遷の一つの道なのかもしれないけれども。