東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『衝動/観たい映画』

■ 昨夜、知り合いと銀座で待ち合わせ。その知り合いの方がやろうとしているある企画に有難くも参加しませんかと声をかけて頂いたのでちゃっかりついていく。


■ 楽しそうだけど、なんか話し合いの席でずうずうしくしゃべりすぎただろうか。それが不安。まだお互いが何をしたいのか/何が出来るのかが判らないから話し合いも手探りな感じになってしまう。集団を形成するときに大切な共通認識や『言葉』がまだ足りない。今後、その『言葉』をうまい具合に作りあげられたらいいなと思う。とにかく楽しいことになれば素敵だ。


大江健三郎さんの『死者の奢り・飼育』(新潮文庫)読了。運動をしているわけでもなく、ただ佇んでいるだけなのにジワーッと汗が滲み出てくるような印象。文末の江藤淳さんの解説から抜粋。

『これらの作品を通じての一貫した主題は、「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えること」であったという。ここでいう「監禁状態」とは、時代的にいえば一種の閉塞状態であり、存在論的にいえば「社会的正義」の仮構を見抜いたものの一種の断絶感である。』

この文庫の初版が昭和34年。1959年。小説に使われている題材も確かに同時代性を感じるもの。だけどそれでも2005年をノウノウと生きる僕にまとわりついてくる読後感がある。生活の水準や自分を取り巻く環境が変わったとしても人間の本質的なところはそんなに変わるもんではないんじゃなかろうか。衝動を表に出すか/内に込めたままにするか。その時代、そこにいた人たちは衝動を表に出した人もいた。して、今。内に込めたものが外側に発散されないまま内側で膨らんでいる。「結果的に表に出たか/ださないか」だけ。表裏一体。1959年のこの物語は2005年の今にも通じている、気がする。


■ ただ、今の時代には今の時代の描き方がある。通じているからといって今、1960年代を題材に物語を書くことが妥当かといったらそれもどうかと思う。『シガラテ』はイマをきちんと描いていると思う。内側で膨らんだものを敢えて爆発させなかった。やっぱりイマを考えなければならない気がする。しかし、かっこいい文章を書いているなぁと思う。大江健三郎さんて写真で見るとゲートボールとか好きそうな気のよさ気なおじいさんにしか見えないのに。まぁ見た目と思考はそんなに関係ないだろうし。


■ そういったことを描いていそうで、かなり勝手に期待している映画がこれ。まもなく公開。絶対に観にいく。そしてこの映画に関するいとうせいこうさんのコメントを発見いとうせいこうさんはこの映画に「物語の型を探そうと静かにもがいている感覚」を見出したという。考えている人がいる。形にした人がいる。ならば是非ともそれを見たい。