東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『太田省吾さんのトークショー』

■ やけに肌寒い一日だった。それでも夏なのだからとTシャツで出かけたことを後悔した。ネットの天気予報によると明日の東京も最高気温が23℃らしい。快適な気温め。


■ 今日の日中、池袋の新文芸座でやっている成瀬巳喜男監督の映画特集を観にいく。最近やけに新文芸座に行っている自分がいる。今後もおそらくかなり行くことが予想されるので新文芸座の会員になることにした。初回なので入会費2000円を払ったけど、それで一枚招待券をもらえたので普通に映画を観る気分で入会。それで今後は新文芸座でかかる映画は一律1000円で観られる。新文芸座「友の会」。素晴らしい。


成瀬巳喜男監督初体験。今日やっていた映画は

『夫婦』(53年/東宝
『妻』(53年/東宝

の2本。成瀬作品で注目されるのは魅力的な女優陣なのかもしれないけれど、どちらの作品でも主演されていた上原謙さんの演技に魅せられた。なんともはっきりしない夫役がとてもよかった。『夫婦』のラスト。木枯らしの吹く公園。倦怠期を迎えていた夫婦に突然授かった子供。夫婦2人が暮らしていくのがやっとの収入。先行きは暗い。一度は堕ろそうと産婦人科にも行ったが、最後は妻に向かって「(その子供を)なんとしてでも育てていこう」と言う。こう言葉にした夫自身、なにか将来に確信があるわけではないのだろうけど、それでもそう言葉にして妻に語る。そして寄り添って歩き出す2人の後ろ姿が良かった。蛇足ですが上原謙さんは加山雄三の父親だそうで。


■ 11日月曜。江古田のストアハウスで行われた劇作家太田省吾さんのトークショーへ行った。29歳で劇団転形劇場の創設に参加された太田さん。ミラン・クンデラの言葉をかりて人間は『霧の中を歩く』ようだと語る。明確な答えのでるものではない存在。そういう風に人間を捉えて演劇を作っていると語っていた。


■ 同世代の寺山修二さん、唐十郎さん、つかこうへいさん等が作り出した演劇とは対極にある沈黙劇を生み出した。速度と強度に対してテンポが遅いというところに宝を見出したのだという。それを生み出すまでに「どう観客と向き合うか」の試行錯誤を繰り返したのだという。そうして生れた『小町風伝』や『水の駅』などの作品。


■ 世界的にも有名な『水の駅』は様々な劇団がいろいろな場所で上演しているそうだけど、それらの公演ビデオを太田さんが観たとき、太田さんが『水の駅』でやったことが安易に真似されているケースが多いそうだ。どうしてゆっくり歩くのか。なぜ言葉を排するのか。そこの思考が抜け落ちてただ「型」だけが模倣されることに疑問を呈していた。


■ スタイルを持つことが重要だと言う。既存の演劇をどう壊していくか。それは安易な「型」を作ることではない。「型」を要求すると、その「型」に収まらないものは排除されてしまう。そうではなくスタイル。太田さんの場合、ゆっくりと動くという制約を役者に与える。しかしそれ以外はなにも制約がない。その中で役者が舞台に立つ。スタイルとは「生きる根拠、舞台に立つ根拠」を持った意志による運動。


■ また、集団に対する考え方も語っていた。20年間の活動をした転形劇場を解散された太田さんなりの集団のあり方。劇団という集団だからこそ可能だった演出家と役者の信頼感。劇団という運動体を持つことで産み出せる作品がある。しかし閉じこもる集団には世界が見えにくくなる。一方で劇団ではない即席の集団でモノを作る際に、一緒にモノを作る同士の間でさえ言葉を伝える困難さが確かにある。風通しがよく、それでいて共通言語、認識を持ちえる集団の形成こそが重要。


■ まだまとめきれてない部分があるけど、太田さんの話を聞いて僕なりに消化したことはこんな感じ。とてもためになるお話だった。聞き手は演劇評論家の西堂行人さんだったのだけど、2人がトークの最後に今の演劇はなんとか延命されているような状況ではないかとおっしゃっていた。ぶっちゃけるとなんともしょぼいとのこと。狭いところで流通されてしまうくらいならばいっそ演劇などなくなってしまえばいいと言っていた。そんな状況なのだろうか。でもきっとそういう状況なのかもしれない。


■ なんにせよ、そんな中で、それでも演劇にとどまるのならば、どういうスタイルを持って演劇に臨むのかが確かに重要なのだなぁと思う。


■ あと最後に、今日のネットのニュースで気になった記事を一つ。
−世代を超えて広がる「びみょう」−

『いいか悪いか判断がつかなかった時に「びみょう(微妙)」という言葉を使う人が58%に上り、10代では96%を超えることが12日、文化庁の日本語に関する世論調査で分かった。素晴らしいやすごい、おいしいなどの意味で「やばい」を使う10代も71%に達した。(共同通信)』

この記事の全文を当たると「微妙」は若者言葉なのだという。「やばい」は判るけど「微妙」も若者言葉なのか。それはさておき確かに仕事場に新しく入ってきた若者がかなりの頻度で「やばい」を発している。昼ごはんを食べていたとき若者が「これ超やばい」と言っていた。おそらく「かなりうまい」の意だと思われるが一体何が「超やばい」くらいうまかったのか。それはちょっと気になった。