先日の火曜日。どうしても観たくなり、新宿でレイトショーを観る。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』
回想のように描かれる断片的な娘とのやりとりが、当然のように考えている過去から未来へと一直線につながっていく時間感覚を逆手に取ったような構成が面白かった。説明がないから感覚だけで「過去」のものと考えてしまう娘とのエピソード。しかも時系列がバラバラ。最後にその出来事について解答がでてきて唸らされる。
いろいろネット上に転がっている文章を読むと、原作を書いた作者も、物語のアイデアは、とある役者のトークショーで、恋人とのエピソードを思い出した順に断片的に語ることが面白く、そこからヒントを得たということが書いてあった。それは確かに面白い。というか、自分の凝り固まった時間感覚を大きく揺さぶってくれるような作品で刺激を受ける。
さらに映画の中にでてくる「サピア・ウォーフの仮説」という考え方。言語が知覚のあり方をかたちづくるという考え。これも確かに最もだなぁと思えた。僕たち日本人は、漢字や平仮名といった言葉や文字になじんで生きているわけで、考え方も確かにその「文字文化」の影響を受けていると思う。町山智浩さんが映画『メッセージ』に触れて、アメリカ人と日本人の考え方を文法から説明しており、それによると、例えば
「I hate you, because 〜」という形で、まず
「嫌い」と結論をはっきり言って、そこから理由を述べる文法だけど、日本語の場合は、嫌いという結論は最後に置かれ、その手前に理由が入るので、例えば
「私は、あなたのなんというか、その少し自分勝手な、うーん、まぁ、自分勝手というか独りよがりというか、人の意見を聞かない、というと大袈裟か、ははは、その良い意味で自分の考え方を曲げれない、そのこだわり?その、そういうところが、その、私とは少し意見が違うというか、相容れないなぁというところで、まぁ、ちょっと、だからその苦手というか、その、まぁ」
という形で結論を最後にまわせる文法になっており、こういう言語感覚が考え方に影響を与える部分は本当に大きいはず、とおっしゃっていて、それも本当だなぁと思った。異文化に触れる第一歩は会話によるコミュニケーションだとしたら、その言葉に触れることで何かが変わるということは大いにあるような気がする。
いずれにしても「メッセージ」は映像自体もどこか静謐で、セットを組んだロケで撮影された数々の場面も素晴らしく、音楽も良かった。メインテーマ的に使用されるマックス・リヒターの「オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト」の繰り返されるようなフレーズが印象的に耳に残る。
一昨日。娘が7歳の誕生日を迎えた。嫁に、なにが欲しいかを事前に探ってもらったところ「そうめん流しセット」だったらしい。なんでも、友達の家で、上から下にざっーと流れる装置のようなそうめん流し機でそうめん流しをやったことが楽しかったらしい。
その日は職場を少し早く出て、夕方くらいに地元の駅へ。西早稲田で若い学生たちが乗ったり降りたりするのは早稲田大学があるからなんとなく理解できるのだけど、雑司が谷駅でもたくさん学生の乗り降りがあり驚いた。よくよく考えれば日本女子大か。意外と学生の町なのかもしれない、地元も。
夜。家族で食事。流しそうめん機登場。わりと、リアクションは薄めだったものの、そうめんを食べた後、嫁がゼリーやフルーツをそこに入れて、炭酸水でフルーツ流しを始めたところ、俄然テンションがあがっていた。
7歳。最近はいろいろと自分の考えでモノを言うようになり、嫁と食い違って口論もあるという。日々、成長中ということだろうか。
一緒にお風呂に入り、布団で寝かせる。「絵本を読んで」は毎度のお願い。いつかの誕生日に買った宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を読んでというので、それを読む。途中で娘は寝息を立てた。
その日、東京は梅雨入りが宣言された。夏の前の、長い雨の日々が始まる。