東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ぬるま湯の深刻』

割れた瓦

■ 今週と来週の金曜は仕事。自分の用事もあってシフトを替わったから仕方がないのだけど、早稲田の授業に行けないのは残念。


■ 22日(木)。アーノルドシュワルツェネッガーという劇団の『スイム』という芝居を下北沢で観劇。新宿区にあると思われるボロアパートの一室に、売春等の目的で集められた女が数人囲われている。そこに集まる駄目な男と女の話を過剰なくらいグロテスクに描いていた。


■ そういった境遇から抜け出したいと心情を吐露するのは男たちばかりで、女たちは男にいいように使われているもの、男を出し抜こうとするもの、自分なりの目的をもって身体を売るもの様々いるが、胸の内は黙して語らず。その境遇から抜け出したいと願うというより、むしろその境遇の中でどう生きるかを考えているように思えた。そういうしゃべる男と黙する女の対比が僕には興味深かったけど、どっちの視点にたって観るかで作品の印象が変わってくるのではないか。


■ 物語の終盤、異物の唐突な侵入に端を発し、駄目な男と女が集まった共同体は崩壊する。ただ、その共同体に留まることをヨシとしていない者たちにとって、異物の侵入はむしろ救済であったのではないか。決して幸福な終わり方ではないけど、そこから抜け出たいと思えただけまだ救いはある。


■ この作品のようにどん底のような『駄目』を作り、舞台にあげるのも一つの創作だとは思うけど、例えば神代辰巳さんが『赫い髪の女』で描いた肉体労働とSEXの果てしない繰り返しはどん底とまではいかないぬるま湯のような状況だった。しかし、ぬるま湯のような状況はそれが駄目かどうかの判断さえできないという点で、だからこそより切実なものとしてあるように思えた。『赫い髪の女』では異物は出てこない。だから男と女はSEXを繰り返し続ける。それが生きるすべてであるかのように。どん底とは異なるぬるま湯の深刻さこそ、今、見つめるべきものとしてあるのではないか。


■ 当日パンフレットによると、この劇団の主宰である武沢宏さんが脚本を担当する『インテリジェンス』という作品が『劇団演技者』で28日から放送されるとのこと。チェック。そういえば、来週の月曜日は『すべらない話』の第六弾もある。チェックチェック。


■ 終演後に芝居に出演していた知り合いに挨拶をすると開口一番、「なんか疲れてる?」と言われた。その知り合いとは会うのは3,4年ぶりだったのに、いきなりそう言われてしまった。それほどさえない面をしていたのだろうか。


■ さえない面はともかく昨日はチェコ対イタリア戦を見てから爆睡。そして目覚めたときには朝7時半だった。というわけで日本対ブラジル戦は見過ごした。職場には徹夜で見た人もちらほらいるらしい。タフだなぁ。