東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

トーキョー/不在/ハムレット

というわけで日曜出勤。とは言っても平日に来ていない日があるし、大そうなことではない。ハルナも花博に行っていたとは。ミニ盆栽のコーナーはあまりの混みように行かなかったけれども、確かに見ていたら欲しくなっていたかもしれない。それにしてもハルナの言うとおり最近東海地方がアツイ。今度の地球博も愛知だし。今回の花博を上回る規模なのだとしたら、一体どれほどの規模になるのだろうか。銀座のど真ん中にも『地球博まであと○○日』というでっかい広告塔が立っているし。ゆうすけさんのつれづれつづりもいい。そういえば北海道では冬は雨がなかった。そういうことは住まないと気づけない。長い時間が過ぎることで見えてくる世界がある。

この前の日記でオレオレ詐欺のことを少し書いたら、10/19号のSPA!の神足裕司さんのニュースコラムもオレオレ詐欺のことを書いてあることにその後気づいてあまりのタイミングのよさに驚いた。それによるとやはり今は警察官や弁護士を名乗って示談金を請求するオレオレ詐欺が増えているらしい。かつてヤミ金関係で働いていたもの達がオレオレ詐欺に流れているらしい。確かに電話一本で実行可能であるし、やりようによってはいくらでも逃げる手段もある。とにかく冷静に対応するように心がけることが必要なのだろう。取材に答える神奈川県警の副署長の話、「まさか自分だけは、と思うのがひっかかる全てだ」は簡単には聞き流せない。

で、話はかわる。昨日の夜勤明けに再び遊園地再生事業団の『トーキョー/不在/ハムレット』の準備公演の受付手伝いに行った。浜松町の駅から地下鉄都営大江戸線で一駅なので、近いから歩いてみた。浜松町の駅からも東京タワーが見える。東京タワーを目指して歩いていると大きな鳥居にぶつかる。浄土宗増上寺の鳥居。もう少し進むとおっきな本堂がある。本当に大きい。解説を見ると約590年前に建立されたらしい。大きな本堂の向こう側に東京タワーが見える。江戸の昔に建てられた寺と、昭和の興隆の象徴である東京タワーの組み合わせ。500年以上の違いがあるこの2つの建物。しかしそこに違和感はない。それはもちろん個人的な感情だけれども。そこには東京タワーと寺に共通するものや、それこそ東京の、トウキョウの持つ不思議な力によるものなのかもしれない。増上寺越しにある、東京タワー。それもまた東京の一つの表情。

劇場のある赤羽橋まではのんびり散歩しながら歩いても20〜30分。本当に近かった。受付の手伝いといっても、会場案内だけ。今日はほとんど観劇するために来たようなものだった。濃密な2時間20分だった。実験的な舞台だった。あらかじめ完成されていた物語を解体して、舞台上にのせる。物語だけでなく、台詞や役者の動きも解体していく。既成のレールからことごとく外れる。そうすることで物語は物語から切り離されて、役者は役から切り離されて、台詞は意味から切り離されて、一つ一つの単体として、そこに、あった。それを目の当たりにした時、浮かび上がるものはなんなのだろうか。うまく言葉に出来ない。例えばそれは『あまい』という言葉だとする。『あまい』はしかし只の文字だ。決して甘くはない。もっと言うのならそれは、『あ』と『ま』と『い』という文字を組み合わせたものに過ぎない。ただそれを「甘いものだ」と言われたら、こっちは「ああ、そうですか。」としか言えない。しかしそれを「甘いものだ」と言われなければ。ただの『あまい』という言葉だとしたら。それは『あまい』であり『甘い』であり『アマイ』である。なんだっていい。それは受け手の自由。あらゆるものが意味から遠ざかり、ただ、そこにあった。それを受け手は勝手に受け止めていく。一つの意味から遠ざかるということは、また一つの意味としてあるんだけれども、それは今までそこに当然のようにあった、洋服や袋を裏返して、見せられたような感じ。そこには見たこともない世界がある。そこは刺激的な世界だった。そんな舞台だった。脱構築。そういう手段。そういう思想。

その後、下北沢へ行く。以前、ある芝居で共演したSさんが出演している芝居を見に行く。芝居のダブルヘッダー。下北沢は小演劇のメッカだ。いつでも芝居がやっている町だ。大学時代の同級生HくんとHくんの友人Tくんと一緒に見る。この二人はSさんのファン。以前Sさんと僕が一緒に出た芝居を見に来てくれたときにすっかりSさんの虜になってしまっていた。その他にもその芝居を一緒にやった面々が見に来ており、観劇後はさながら同窓会のようになっていた。芝居を通じて知り合いが増えていく。別々にやっているものの、こうやってたまに会うとなんだかいろいろ懐かしくなる。その後、みんなで酒を飲んだのだけれども、僕はいよいよ風邪がひどくなっていた。やはり芝居を二連ちゃんで見るのはつらかった。飲みの席にはかつて僕を「マツケンさんだ」と冷やかして、それとはまったく関係なく、芝居の本番中に骨折したYさんがおり、今回も「マツケンだ」と冷やかされた。マツケンサンバ歌えとか踊れと言われてもよく知らないわけで、風邪がひどいというのにYさんは一切容赦してくれなかった。

終電間際、先に帰らしてもらったが、電車の中でずっと芝居のことを考えていた。夜のSさんが出ていた芝居は、今、東京の小演劇という世界で、存在している類のものだった。片や遊園地再生事業団はまた別の場所にいた。そこはもはや住み分けされている。生存競争は生まれない。つまりどっちもアリなわけで、あとはどっち側に進みたいかという選択がある。面白いと思えるもの。刺激を受けるもの。自分の内側にひっかかるもの。つきつめて、僕は何をしたいのか。どういうものをやりたいのか。なぜ演劇にこだわるのか。 そんなことを電車に揺られながら考えていた。

喉が痛くなり、鼻水も止まらない。風邪はひどくなるばかり。秋は始まったばかりだ。