東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『helpless絶版』

青山真治監督の『helpless』を観る。映画の中心となる3人(健次、安男、ユリ)はそれぞれ自分にとって『父』となる存在を失う。『死』という絶対の喪失。自分を支えてきた一つの支柱の突然の崩壊。その事実をどのように受け止めることが出来るのか。
自らの手で他者に『死』をもたらした後に、そこでインスタントカメラのシャッターを切る描写。形あるものとして存在を求めようとする行為。
茶店で注文したパフェのその形を、それが溶けるまで見続ける行為。
この世にはもはやいない『親父』を求める為に、他者を手にかける行為。
望まれることは叶わないという点で、救われることの無い行為。どうしようもない現実。
自らの妹であるユリに銃を向ける安男に、「自分の都合で妹を殺すのか」と咎める健次は、ユリを連れて逃げる。その行為によってユリの命は救われるが、ユリが大切にしていたウサギはその行為によって失われる。様々な行為の集積によって、一軒無関係に思われる次の行為が用意される。かといってそれは運命とかそういうものではなくて。偶然とか、運命とか、そういう言葉に還元することさえ安易なように思えてしまう。人はそこにいて、何かをする。理由を突き詰めるというわけではなく、その行為を、ただ、見つめるという肯定。

『喪失=死』として『helpless』があり『再生=生』としての『ユリイカ』があり、『許容=絶対の肯定』として『サッドヴァケイション』があるとして三部作を観れるかもしれない。少なくとも、喪失したからこそ際立つ父性に対して、ブックバインドのように母性の存在としての『サッドヴァケイション』があるように思える。

■でもって、これは『helpless』の小説を読まねばとさっそく本屋に行った。在庫の有無を店員の人に問うと店員の人は言った。
『絶版です』
思わず店員の前で「が」と言ってしまった。なんて恐ろしい響きだ「絶版」。「ぜっ」も恐ろしければ「ぱっん」も恐ろしい。