東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『悪は存在しない』

朝7時40分起床。朝食を食べてでかける準備。外に出ると日差しが気持ちいい。上着を着てきたが、暑いくらい。都電で大塚へ。とある仕事があり。少し余裕があったので、ロータリーで座って時間をつぶす。ご年配の男性がやってきたら、途端に鳩が集まってきた。餌をくれる人なのだろうか、男性はにやにやしていたが、特に餌をやることもしない。では、なぜ鳩は集まってきたのか。不思議が。

とある仕事。自分もあまり詳しく知らない界隈のことだったので、勉強の意味もありつつ、見学。最初はちょっと飲み込みにくい部分もあったけど、それを求める人と、その応援を受け取る人たちがいて、まだ小さいながらもそこに集う空間があれば、コミュニティは成立する。もちろん、一方的に何かを発信したとしてもそれは響かない。そこには、共有される何かがある。全面的にうなずけるものではないにしても、そういった空間があることは肯定されるべきだし、それを楽しんでいる人がいるのも知ることが出来た。

それから渋谷へ。山手線で移動。大塚からはわりとすぐ。渋谷ハチ公口は信じがたい人の数。改札から出るのに一苦労。祝日の渋谷は来るものではない。が、観たい映画があった。

濱口竜介監督『悪は存在しない』。渋谷のル・シネマにて。冒頭の森の中を、真下から見上げるカットの、なんともいえない、畏怖のような感覚。

運転のシーン、車の走行シーン、車中の会話など、いくつかの車移動のシーンがあるけれど、それが印象深い。グランピング施設工事を説得させるため、主人公に相談をする二人が、高速道路を走るシーンは基本的に、後部座席から前方の2名を映す2ショットと、それぞれのの1ショットだけで構成されている。その冒頭にバックミラーを映すシーンが1カットだけ入ったけれど。お互いの表情はある程度しか見えない中で、二人の人となりを感じられるシーン。おそらく高速道路というロケの性質もあり、単純に停まってカメラ設置が出来ないという理由もあるだろうが。

その後、主人公をいれた3名の車中のシーンは、前方から3名それぞれを捉えるシーンと、3名が全員映る画角で撮られている。車の撮影はカメラ設置など狭い車両の中で準備しなければならないので、意外と手間がかかる。さらっとしたシーンではあるけれど、そこにカット割りをかけるということは、監督の意志が強く感じられる。その手前で、昼食を摂る3名のシーンは穏やかな、この映画の中でも観客からも笑い声がでるような場面で、不意に町にやってきた施設開発を企てる2名が町ときちんと向き合おうとしているシーンでもあったけれど、その後に、この車のシーンはある。施設が鹿の通り道であり、その鹿を出入りさせないために3メート近い柵を作らねばならないと主人公の男は語るが、野生の鹿は人を怖がり近寄ってこないならば、その必要はないのではないかと施設を作る2名は疑問を抱く。手負いの鹿はその限りではない、と主人公が語り煙草に火を着けた時、それが木々なのか、何かの影なのか、運転する主人公に深い陰が落ちて、画面が暗くなる。ここに、何かすでに、結末の予兆を感じる。主人公は、疑問を投げかける2名へ、はっきりとした回答をしない。

話は戻り、施設設置の説明会の場面で、町の長を担う先生と呼ばれる人は、上流の土地に住む者の義務を語る。水の流れが上から下に流れる限り、上で起きたことは必ず、下に影響を及ぼす。だから、上に住むものは、下に住む人たちに出来る限り、影響を与えないようにクラス義務があると語る。それは、この説明会に限れば、上流地域での生活排水で水を汚すことが下流に住む人に影響を与えるという意味だが、これはおそらく、もっと大きな自然の摂理の中でも当てはまる。上から下ということではなく、何かをすると、それが何かに影響を及ぼすということ。町の便利屋として、この地域の自然に詳しい主人公はその摂理を理解している者だった。ただ、決して、彼は、神様的な立ち位置にいるわけでもなく、どの登場人物たちとも同じように、一人の生きて暮らす人間に過ぎない。

映画の最後の、少女の失踪に伴う一連の出来事が、何か、運命とか、そういった因果の結果とか、そういうことを言いたいわけではなく。もちろん、鹿狩りをした銃により傷ついた鹿が、興味なのか憐憫なのか、近づこうとした少女を、防衛のつもりで襲ってしまったのかもしれないと、理屈では説明できるかもしれないが、本当にそうなのか。映画は、すでに収められた記録データを再生させるから、決まった脚本に沿って演じられるから、この結果は変更できないが、もし、これが、撮影を関係なく、もう一度、同じ場面を、同じように行ったとして、同じ展開になるのか。傷ついた鹿に向かおうとした少女に鹿がとる行動や、それを背後で見ていた主人公の取った行動は、果たしてどうなるのか。何か、作られたシナリオの、因果の、その果ての行動というよりも、衝動的な、その瞬間の、その場にいた存在全てが、とった咄嗟の行動の集積があの結果になって、それは、本当に、唯一の、説明もできない、何か、でしかないのではないか。だから目撃してしまった僕らは、途方にくれるしかない。安易な回答を用意してくれない作品を目の当たりにして、その幕引きに対して、自分で何か結論を出さねばならず、かといって、明確な解答は無いだろうとどこかで思っていて、だからこそ、苦しい。

映画の本当の最後。息を切らして走る主人公の目線なのかわからないが、映画冒頭のシーンと同じく、森を真下から見上げるショットである。僕ら全員、下にいる。見上げるしかない。何かの影響を受けて、地面の上に立っている。主人公も同様である。降り注ぐ何かを受け入れて、その影響から、行動をするしかない。映画の冒頭、少女が真上を見上げるショットがあったことも監督の意志だろう。