東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『夜明けのすべて』

朝7時半起床。ご飯を食べる。昨日、夜にガッツリ、サウナに入ったのでどうしようかと思案したものの、寒いので朝風呂に。温まる。

それから車で仕事先へ。一仕事終える。すっかり見るだけになったFacebookで、過去の投稿というのが出てきて、だいぶ前の2月25日、僕は思い立って、家族と車で京都へ旅行に行っていた。まだ小さい娘が、京都をうろうろしている写真があった。自分でさえうろ覚えなのだから、娘は覚えてないだろうな。いつ頃だったのだろう。

実のところ、今日、仕事関連で天気を猛烈に気にしていたが、結果、天候不良で延期になった案件が一つあり、それによっていろいろな段取りを、仕切り直さねばならず、一人うなだれている。とはいえ、天候は仕方がない。昨日は晴れて、明日も晴れるらしいので、なぜ今日だけ天気が悪いのかと、煩悶する。

少しばかり仕事を終えてから、映画「夜明けのすべて」を観たく、映画館を探すが、どの映画館もほぼ満席。とはいえ、観たい思いが募り、最前列しか空いてなかった渋谷の映画館のチケットを取る。

三宅唱監督「夜明けのすべて」。PMSパニック障害を題材にした作品。それらを抱えつつ、日々を暮らす主人公たち。彼らだけが特別かといえば、そういうわけではなく、彼らが働く小さな会社の社長は、劇中では語られない弟の理由がわからない自死に長年苦しんでいるし、主人公の一人をその会社に紹介した、バリバリのビジネスマンと思われる男性でさえ、身内の死(おそらく仕事を苦にした自殺で、その会社とおそらく裁判をしている)によってぬぐえないものを背負っている。そのうえ、主人公の女性は、母親の介護も背負う立場にある。それぞれに抱えるものがあり、それらと向き合うしんどさも描くが、それが致命的な何かにはなっておらず、小さなしこりのようなそれを抱えながら、それなりに生活を過ごしている。そういう意味で、映画的な劇的な展開はこの作品にはなく、何かが起こりそうになりつつも、膨らんだ風船は破裂することはなく、しぼんだり、膨らんだりを繰り返し、微妙に漂っている。

幸いなことにバタバタした生活は過ごしているものの、僕自身にはその症状は今のところ認められず、パニック障害の一例として映画でも描かれる電車に乗れない、ということは、以前、自分の仕事関係の人からも聞いた症状で、通常よりも過度に顕れてしまう強迫観念によっておこるそれは、実際にそうなっている人にとってはとてつもない切実さだとは思うものの、劇中のドクターの言葉を引用するならば、「人によっては治るのに10年かかる」と言われるそれらの症状と、彼らは、日々向き合っていかねばならない。常に苦しむわけではない、彼らの日々を、ただただ、丁寧に描く。周りの人たちも過剰に意識せず、普通に接する。それが良い。

パニック障害により食べ物の味を感じなくなっていた男性が、仕事帰りの帰り道、(多分)肉まんを食べたとき「うまい」とさらっと、本当にさらっと言う場面、障害が始まったきっかけが味覚がしなくなることだったので、美味しさが戻ってきているということは、回復の兆しだとは思うが、そのことをあえて強調しないからこそ、そこには優しい幸福感が生じる。もっと劇的に描いてもいい終盤の移動プラネタリウムの場面も、そっと、あるものを丁寧に映すだけにしている。

いくつかのシーンが、対をなしている。物語の序盤、主人公の一人である女性が、お菓子を職場に差入れする描写で、職場の入り口から入るアングルは、そこにいる社員の立ち位置までも一緒の構図で、後半に、もう一人の男性の主人公がたい焼きを差入れするシーンで使用される。冒頭は、女性のモノローグから始まるのに、対して、物語のラストは、男性のモノローグで終わることも意図的だと思う。そして、曇り空の中、土砂降りのバス停のベンチで座る女性から始まったが、最後は、きつねの嫁入りのような、明るい空のもと、雨の降る中で、介護施設へのバスを、笑顔で見送る描写もまた、対をなしつつ、優しい希望を感じさせる。

映画を観てから、池袋の時々行く美容室で髪を切り、黒く染める。髪を切ると、根本の当たりが結構白髪になっていることがわかる。短く切って、さっぱり。

その後、再び仕事で車の運転。夜まで結構雨が続く。天気予報だと明日は雨がやんで晴れるらしいけれど、疑わしいぐらい雨が続く。

帰宅してから筋トレ。それから少し家の掃除など。充実した日曜でした。