東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『アフターサン』

朝7時40分、起床。燃えるゴミを捨てて、朝食を食べる。快晴。

昨日持ち帰った車で出社。青い空で気持ちが良い。窓を全開で走る。が、やや渋滞。ようやく渋谷付近でスムーズに走り始める。明治通り沿いの八重桜の新緑が心地いい。

いくつか、電話。お詫びみたいな電話が多く、気が滅入る。それも仕事。日中、日差しが強くなり暑いくらい。半そでで十分。

夕方、仕事先に出る予定で、ある程度、余裕をみて仕事をしていたのだけど、出先にでる直前で、いろいろと仕事の連絡。結果、バタバタと仕事をして、慌てて出かける。

夕方、出先で仕事をして仕事終了。代々木の吉そばでかき揚げ丼セットを食べてから、新宿まで歩く。こんな日は外でぼんやりしたいと思うものの、新宿は賑やかで落ち着ける場所も見当たらず。結局、家の近くのカフェでパソコン作業。

カフェを出て外に出ると、空には満月。雲がかかって、良き朧月夜。帰り道、少し寄り道して、近所の法明寺を歩く。桜の花は散ってしまったけど、こちらも緑の木々が心地良い。ぼんやり空を見上げて帰宅。

帰って、映画「アフターサン」を観る。トルコでバカンスを過ごす父と娘のひと夏の記録。文字通り、記録。デジタルカメラで録画された映像。娘は11歳。性的なものや、大人たちの振る舞いに目がいく、子供と大人の境目の時期にいる。

以前、何かの文章で、北野武監督が、海は生死の象徴であり、波打ち際は生死の境目である、というようなことを語っていた。だから、北野監督の作品は、波打ち際にいる人を描く。彼らは、生死の合間にいる。「アフターサン」もプールの際や、水の中でのやりとりが多い。それは生死/大人と子供などの境目として機能しているように思える。娘が「水に潜れない」のは、まだ子供だからではないか。一方で、父親は砂浜を一直線に波打ち際を越えて、暗い夜の海へ消えていく。それなりの長時間、海へ消えていった父親は次のシーンでは裸体でベッドに寝ている。ある意味で、生まれ変わりであるのかもしれない。実際、父親は翌日に誕生日を迎えた。

冒頭で描かれた娘から父親への問い。11歳の父親は何を考えていた、の問いの続きは、映画の中盤に描かれる。カメラをテレビにつなぎ、録画した映像がそのままブラウン管に出力される。娘からの問いかけに言葉を濁す父親が、そのカメラを停めて、テレビの電源を切る。娘は記録には残さず、心のカメラで撮るから、と言う。ベッドに座るその二人の一連のやりとりが、さきほどカメラからの映像が映っていたテレビ画面に反射で、映る。このカットが本当に素晴らしい。

映画を観る僕らは、直接彼らの姿を観れない。テレビ画面に映った反射を観る。カメラに記録されたわけではないそのカットは、娘の心のカメラに残ったやりとり。1時間40分ほどの映画は、そうやって、些細な、本当に些細な、バカンスの日々を紡いでいく。だからこそ、愛おしい。劇的な出来事が起こるわけではない(娘が同じ年くらいの少年とキスをしたという出来事はあるが)。だけど、その出来事は、この父娘にとっては、代えがたい夏の日々だったと思う。そういう夏は誰しも過ごすと思う。だから、この映画は、それを描いた点で、代えがたい作品なのだと思う。