東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『愛のまなざしを』

快晴。朝、目覚めて、布団を干す。押し入れから厚手の掛け布団を一つ出して、それも干す。

仕事があり、車で都内へ。都内も日曜は空いている。晴れて心地がいい。少し待ち時間、車の中にいると、なんだか身体がこわばるので外に出て伸びをする。もっとストレッチをしたい。

日中、仕事を終えてから、思い立って渋谷のユーロスペースへ。万田邦敏監督の『愛のまなざしを』を観る。なんとなく仲村トオルさんのインタビュー記事を読んで気になった。万田邦敏監督の作品は『接吻』以来。

冒頭、どこかわからない地下通路のような実景から始まる。そこから黒バックの中にテロップが浮き上がり、タイトルがでてくる。登場人物それぞれが、それぞれの想う『愛』を貫こうとする。妻を自死に追いやり救うことができなかった医者は、自分だけを頼りにする女性と再婚を願う。その女性は、医者だけが心の支えであり、亡くなった妻を超える存在になることを願い医者に尽くす。自死した女性の弟は、義兄となる医者への嫌悪を抱くが、その医者に付きまとう女性の執着とはつかず離れずの距離を置くが、義兄への憎悪からふとした拍子に嘘をつき、その嘘から物語が少し転じていく。劇的な物語としてみれば、彼らの行動は『愛』ゆえに行われる行為なのだろうけれど、どこかそれぞれに狂気をはらんでいるように感じる。彼らの行為を、俳優たちはすべて理解したうえで、演じているのだろうか。そもそも、俳優は、役のすべてを理解しないとダメなのだろうか。仲村トオルさんはインタビュー記事で、役者としてすべてを監督に委ねたというようなことを語っていらっしゃった。良い意味で、仲村トオルさん演じる医者は、映画の中で、流れにながされるような振る舞いをする。あっちへ行ったかと思ったら、次の瞬間には真逆の行為をする。自死した妻がその場にいるような振る舞いがあったかと思いきや、憑依したように言葉が口から発せられることもあり、そうかと思えば、妻の行為がわからずに葛藤する。どうしたって複雑で、何かを考えたとしても、理屈では成立しない行為がある。そもそも、理屈では成り立たない心の機微があるからこそ、映画があり、それを成立させるのは、感情を説明するではなく、ただ、そこに存在する俳優の姿でしかないのではないか。

仲村トオルさん演じる主人公が、最後に、ヒロインである女性に包丁を刺す描写があるが、主人公が実際に力をいれて刺したかどうかは判断がつかないようになっている。映画の中でも実際にそれは「僕にもわからない」という風に主人公の言葉で語られるし、その場面は、2度、劇中で描かれるが、包丁を間に向かい合う二人の姿はカメラで映し出されるが、包丁を持つ手元の部分は、画面から切られて見えない。演技としても、カメラの画角でも、音でも、包丁を刺した描写ははっきりしない。観る者には『本当に力を入れて刺したかどうか』わからないが、実はあれ、監督以外、演者もスタッフも、誰も実際のところがどうだったのかわからないのではないか。唯一、監督は正解をかろうじて知っているかもしれないが、憶測でしかないが、そうやってあらゆる人に曖昧にしているのではないかと想像する。そのシーンが終わったあと、血が流れる床に女性が倒れている。ただ、女性が死んだという事実だけがある。

他にも、主人公の医者の診察室は、受付から階段を降りたところにある。まるで深層に入り込むような階段を降りたところにある部屋は、光が差し込む窓が無さそうな部屋に思えるが、時折、謎の光が差す。あの光はどこからくるのか。僕が見落としてるだけで、窓(もしくは天窓)があったかもしれないが、記憶の中では、窓はなかったように思う。だが、日の光というよりは、意図を含んだ照明は、壁に当たったり、人物に差し込む。証明技師は生理として、リアリティを追求するなら、窓から差し込む光をつくるだろうが、そういったリアルとは別に、感情描写、もしくはその診察室で行われる出来事に沿って、その都度の照明が作られる。それは、自然光のリアルではないが、監督にとってのリアルである。さきの包丁のシーンもそうだし、こういった光の作り方もそうだけど、どこか作品の中に、感情やリアリティとは、別の、監督だけの特権としての世界を構築しようとする意図がうかがえる。

地下通路のシーンは、再び最後に出てくるが、そこは劇中で語られる『こちらの世界』と『向こうの世界』をつなぐ道なのだろうと想像する。冒頭にその場所をいれることで、最後と対になりこの物語の結末はあらかじめ決められたものだと示される。監督が語るインタビュー記事の中で、事前に書かれた脚本だと、あまりにも登場人物たちが不幸な結末をむかえたようだが、それを撮影中に変更したのだという。映画のラスト、向こうへ行こうとする主人公の眼の先に、ヒロインが立ち、微笑むと、主人公は踵を返して来た道を帰っていく。つまり、まだ死なずに、生きていくことを意図したのかもしれない。それが幸福かどうかはわからないが、少なくとも死なないという選択肢は、希望ととっていいと思う。