東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『王国(あるいはその家について)』

土曜。ゆっくりできる一日。快晴だったので、新宿御苑へ行き、ゴロゴロしながら本を読む。穏やか。寒さもなく、心地いい。

それから、夜に東中野へ。久しぶりのポレポレ東中野。草野なつか監督の「王国(あるいはその家について)」を観る。ポスターに一目ぼれして、予備知識なしで、観に行った。観てよかった。強烈な刺激を受けた。


映画制作のゴールがどこなのか。脚本を忠実に映像にすることなのか。脚本の核になると思われる部分に、的を絞り、そこを描くために、監督にとっての最善の、唯一の方法を模索することなのかもしれない。

あくまで私見だけれど、この映画におけるゴールは、映画の中では冒頭に配されていた取調室での主人公の女性の描写(エンドクレジットではフィクション部分と書かれた撮影箇所)であると思われ、主人公を正面から捉えたカメラに向かって、微笑むような表情を浮かべる、あの到達点にたどり着くための、アプローチとして、約3時間の映画が作られたではないかと想像する。

監督は、その画を撮るために、物語るための脚本と、キャスティングされた俳優たちの演技を、ある意味で潔く切り捨てたのではないか。その徹底さが、この映画を異質で唯一無二のものにしている。

フィクション部分といわれるシーンが終わると、映画は、(おそらく、というのも、説明がないからだが)繰り返される本読みの描写になる。それは意図された撮影なのか、稽古風景を切り取ったもののかかは説明が無い。私自身の経験値では、昨今の制作現場では、特に映画の場合、本読みは、スケジュール的に、あって1日、もしくは2日程度で、それ以上の、いわゆるリハーサルはあまり聞かない。衣装合わせなどで監督と演者は初めて対面し、そこで基本的な作品の筋とキャラクターイメージの共有が為されたら、あとの演技は俳優部に委ねられて、本番に臨む。もちろん、徹底的にリハーサルをやる組もあるのだろうけれども、商業的な作品になるほど、そういった時間が切り捨てられてしまっている。良し悪しはさておき。

ただ、この作品は、その部分をできるだけ長く、繰り返し、積み重ねており、その繰り返される稽古風景を撮影し、つなぐことを選んだ。本来ならば物語が進行していく代わりに、同じシーンを何度も演じる役者たちのやりとりや表情をつないでいく。時間は確実に進行している。ただ、時間軸は順を追っているかどうかは不明だ。繰り返される本読みや、立ち稽古が、編集でつながれているが、そこは、監督の意図により、順番は組み替えられているようにも思う。映画の中で、俳優たちの言い回しや、演技の仕方も、繰り返し本読みをやることで、微妙に変わっていき、そこでも、おそらく、俳優たちによる演技プランの取捨選択がされている。かといって、俳優たちが、役を演じることの葛藤などを描くドキュメンタリーのような描写があるわけではない。カメラはあくまで本読みだけを繰り返し記録し、役者たちのいわゆる「素の表情」(この表現は役者にとっても失礼だと思うが適切な言葉が見つからないため)を写したりはしない。

台詞を掛け合う、繰り返しが、怒涛のようにつながっていく。

他にも、おそらく、ロケーションハンティングと思われる、台本を演じるにふさわしい地方都市を車で撮影した実景があったり、ある程度、カメラの動きも想定されたロケ地でのテスト撮影のような画も、一度ずつ挿入されており、監督やスタッフ、そしてキャストたちにとっても、この映画のゴールへ向かうための、撮影は進行している。それでも、それは通常の、物語を紡いでいくアプローチには至らない。

エンドクレジットに、松田正隆さんと、マレビトの会のクレジットを見つけて、個人的に合点のいくことはあったけれど、それにしても、その徹底ぶりは、本当にある種の残酷さもある。

映画鑑賞後ではあるが、作品の核となるシナリオを購入した。読めば、限られた登場人物たちが、クライマックスとなる台風の日に向けて、その関係性がうねりをあげていく描写がスリリングで、これをそのまま物語映画として撮影しても十分に見ごたえのある作品になるとは思えたが、それを意図的に切り捨ててまで選んだ方法が、この映画だ。

想像するに、この方法を選んだ理由は、主人公の女性の、その考え方と、どう向き合うべきかを考えたからではないか。物語にとって、劇的な選択をする登場人物の出現は、ある意味で必須かもしれないが、彼らがどうして、その行動をとるのかを、理解することは容易ではない。おそらく、なにか一つの正解があるわけではないし、書いた脚本家の人でさえ、正解を語れるものではない。だからこそ、「とりあえずの解答」として映画がある。

監督が、そして、主人公を演じる女性の役者が、この主人公の行動に、自分なりの解答を獲得するための方法として、物語ることをやめて、反復を繰り返し、その先に、取調室だけを、撮影したのではないか。

脚本の核を描くため、脚本を映像化することから離れ、役者たちもただ一人、主人公だけを「本番」に立たせるために、他の2名の登場人物をあえて、捨て去った。

だからこそ、すごいことだと思う。2名の役者には、果たしてどのように説明をしたのだろうか。これほどの、作品への奉仕はない。もちろん、繰り返される本読み自体が映像になります、という説明で納得をしてくれたのかもしれないが。監督の眼は最初から主人公にしか向いてない。

その証拠というわけではないが、映画の終盤、おそらく本当に最初の、シナリオを一気に通して読んでみようというシーンは、ほぼ主人公しかカメラも追っていない。彼女が、自分の台詞を読みながら、役をとらえようとする表情を、できるだけ追いかけている。

その監督の徹底的な意志を、感じる映画体験だった。

興奮冷めやらず、帰り道は電車に乗らず、LOOPで帰ることに。東中野から神田川沿いを走る。さすがに肌寒いものの「王国」のことを考えながら風を切る。