東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『油そばを食べたいほどに』

朝7時35分、起床。昨日、リビングで寝落ちして明け方に布団に入ったので、なんだか肌寒いのと、寝足りない気分。とはいえ、仕事。

出社して、作業諸々。昨日のとある事態に対する対処に関して、やや疑問が残る。自分のミスをきちんと認められることも大切だとは思うのだが。あと、それにさえ、言い訳をされると余計に脱力する。

昼過ぎ、仕事で少し神谷町付近へ。麻布台ヒルズ、初めてちゃんと見た。建物が出来たというよりは、ほぼ新しい街ができている。かつてその場所に何があったのか、まったく思いだせない。

午後、とあるオーディションに立ち会う。うーん、なんだろう。チャンスなんてそんなに数多くあるものではない。1回に賭ける意気込みみたいなものをもっと持たねばならないと思うのだが、それが感じられない。それではダメだと思うのだが。

今日もある程度、順調に仕事が終わるかと思った矢先、やや調整が必要な事態が発生し、lineや電話でいろいろとやりとりをする。で、結果、やや消化不良な結果に。うーん、難しい。うまくいかない。それでやや気落ちし、油そばをガッツリ食べたくなる。東新宿で降りて、油そばの店へ行くが、数名、店先で並んでいる。普段は、並んでまで食べることはしないのだけど、なんだか今日は、ガッツリ油そばを食べたい気持ちが強く、並んで待つことに。大盛り。たまねぎをがっつりいれて食べる。途中、「辛味」という唐辛子みたいなトッピングをいれて味変。入れすぎた。真っ赤になった。でも、食べた。美味しかったけど、やや舌が痛かった。

帰りの電車で、ふと、宮沢章夫さんのWEB日記を読み返す。時々、読み返したくなる。

適当に読んだ2002年のブログの一節。

あるいは、人は「暴力」をそもそも可能性として内に持っていることを自明として考えるべきであるということ。「暴力的なるもの」があってはじめて、人は人であり、「生産」もまた出現する。そのことをはっきり自覚した上で「人」をもっと深く見つめる。渋谷駅前のスクランブル交差点を高いビルから見れば、どうしてぶつからずに人が交差してゆくか不思議だが、それと同様、社会は様々なタブーを制度として築き、「暴力性」を押さえこむ。
「性」と「暴力」を根源とした「人」の存在をどんなふうに見つめたらいいだろう。それをどんなふうに語ることがいま必要なのか。いや、もちろんそれは「スクランブル交差点を高いビルから見る」というような視点ではないはずだ。まず自分そのものをどう見つめるか。

こういう言葉を日記で拝読させてもらい、僕は毎日のように刺激を受けていた。今、もし、宮沢章夫さんがこの時代を生きていたら、どのような日記を紡ぐのだろうか。

地元の駅を家に向かって帰っていたら、電話で話をしながら歩いている女性がいた。
「あの人は聞き上手だけど、レスポンス上手ではないから」と話している。話をただ聞くだけでは良しとされず、レスポンスがうまくないとだめなのか。僕もきっとレスポンス上手ではない。