東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『どのような空間に浮かんでいるのか』

朝から少しバタバタ。仕事で、忙しない午前中。それで、いろいろと考える。

宮沢章夫さんの『考える水、その他の石』という本をたまたま読んでいて、ふと、目に留まる文章があった。

幾つもの舞台に接し、舞台上に現れる表現を見つめながら思うのは、登場する俳優たちにはそれぞれに、ごくプリミティブな<演技の質>ともいうべき差異があり、それが集団的に実現されたものにしろ、個人に固有のものにしろ、それをどのような経緯で彼らが獲得してきたのか、あるいはいかなる考えのもとにそれを選択したのか、そこにある原理は何か。端的に言えば、彼らの<演技>を裏付けるものがあるとすれば、それは何かという疑問だ。

演技などを教えるメソッドや、ワークショップは無数にあり、なんなら、俳優の数だけ演技の考え方はあり、確固たる正解などはそもそも無いのだろうが、何かしらの演技法を身につけた人たちの、意識的な、もしくは無意識の、表現されるものは、何かしら、型っぽい人たちがいる。それがダメというわけではなく、教えられたことを忠実にやろうとした結果だったりすることを否定はできないが、とはいっても、観ていて、「ああ、なるほどなぁ、そうなるかぁ」と思うこともある。正解がないものだからこそ、何かしら、正解に近いものを獲るために、ワークショップや、レッスン、演技論などを、人は求めるのだろうし、僕だって、20代の頃、そういうものを求めて、1年制のスクールに通ったこともあった。どちらかというと、演技論というよりは、自分が憧れる俳優や演出家の方がどのような考えをされるのか知りたかったという気分ではあったけれど。

そんなことを思ったのは、やたらとTverで目にするNTTアグリテクノロジーのCMで、とある少女を観たからで、ともかく、その子の存在感がとてつもないからだ。

https://www.youtube.com/watch?v=fIhruEs1oYo

ナレーションもやっていると想像するが、立ち居振る舞いや、その語りは、決して、演技論やメソッドから獲たものとは思えないし、滑舌でいうと、それは決して褒められたレベルでないものの、とはいえ、目を引く。いや、引くというレベルではない、なんというか、存在感としか言いようがないものがあり、それに出会ってしまうと、演技論などというものを凌駕したなんらかがあることが、俳優の魅力なのかと思ってしまう。

こう考えをすすめてゆくと、<演技の質>をさらに俳優に根源的なる、<身体>のレベルに引き戻さねばならないと感じるが、それはなにも「芸談」ふうの職人的技芸を語ることになるのではないし、身長180センチの俳優と165センチの俳優では芝居が違うとか、皮膚の色の違いが演技を決定するといったような生物学的なことでは無論ない。その<身体>がどのような空間に浮かんでいるのか、いわば、俳優における、<世界認識>のあり方である。

これも、宮沢章夫さんの同著の続きの文章。CMの少女が<世界認識>に自覚的なのかと言われると、それはよくわからない。ただ、制約のある映像の世界の中で、画角で切り取られるその場に、どのように立ち、「浮かんでいるか」。おそらく、見出される人は、その「浮かんでいる」姿が、魅力的なのだと思う。

午後は車で移動の仕事。空が快晴で、車で移動していると眩しく、陽射しの入る車中はやや暑いとさえ感じる。陽が暮れてから都内へ戻る。やや渋滞。なんとなく、勝手に金曜と勘違いしていたけれど、土曜だと気が付いた。東京都下から都内へ、行ったり来たりの夜。やや疲れた。