東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『新劇について』


■ そういうわけで新劇について考えないといけないなぁと思い、とりあえずネットで新劇を検索してみたらウィキペディアに以下のように書いてあった。


 『新劇(しんげき)はヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇を指す。旧劇(歌舞伎を指す)、新劇派(書生芝居の流れ)に対する言葉。当初翻訳劇を中心に始まり、歌舞伎や新派劇の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇を目指した。』

 
  旧劇である歌舞伎はイメージがしやすいけど、新劇派はちょっとわからない。で、もう一つ新劇について説明をしているのがこちら。このサイトの説明によるとおそらく新劇派とはおおまかに言って大衆演劇のことではなかろうかと思われる。江戸から明治にかけての日本の演劇史に関して書いてあるこのサイトも興味深い。それでもって年表で紹介しているのがこちら


■ これらのサイトを読むに、新劇とは明治時代以降にそれまであった演劇とは違う新たな演劇を目指したものに対する総称だと思われる。つまり今日ある演劇はそういう意味では歌舞伎や能などの古典芸能を除いたすべてのものを新劇として括れるのではないか。そう考えるとすごく広い範囲に及ぶ。まぁそれはさておき、こういった新劇がまず海外の作品の翻訳劇から入っていくのは当然だろう。なにせ『固有の伝統をもってない』わけで、それこそ最初に新しい演劇を目指そうとした人たちでさえ何をすればいいのか判らなかったはずだから。そうなると進んでいる(と思われる)海外の作品を真似てやってみようというところから入るのが当然だろう。


■ ここで坪内逍遥が新劇の誕生に関わっていることが僕には興味深い。なにせ、坪内逍遥は日本における近代文学の第一人者だ。つまり日本において近代文学と新劇のスタートが坪内逍遥という点でつながるわけだ。近代文学について僕が参考にしている文章がこちらこちら。その中にも書いてあるけど、坪内逍遥が目指した『小説の近代化』の根底にあるものが「内面」や「風景」をリアルに描くということだとするならば、新劇もおそらくこの「内面」や「風景」の描写を取り入れることを目指したのではなかろうか。じゃあ江戸時代以前の演劇、例えば近松門左衛門の作品などに「内面」や「風景」の描写がなかったのかと言われたら正直知らないので判らないのですが。


■ とにかく明治以降、急速に海外の文化・風俗が日常に取り入れられていく中で、むしろ『日本人とはなんなのか』ということをきちんと考えようとするために『近代文学』が出現したように、新劇もでてきたと考えるのが自然なのではないか。まぁ「日本人とはなんなのか」を考えるための近代文学や新劇がまず海外のそれの模倣から入っていくことも考えてみると面白いのだけど。


■ で、興味深いのが近代文学と演劇(新劇)の歴史の奇妙な一致で、先にあげた近代文学に関する文献は近代文学の終焉というテーマについての文章であり、この文章の中では近代文学がうまく機能しなくなった時期を70年代としており、もっと具体的にいうと大西巨人さんの『神聖喜劇』までとそれ以後の文学を分けて考えている。『神聖喜劇』が書かれたのが1968年。演劇においても唐十郎さんがそれまでの新劇中心のものから遠ざかろうと状況劇場を旗揚げしたのが1963年で、テント公演を始めたのが1967年。寺山修司さんの天井桟敷の第一回公演も同じく1967年だ。文学と演劇の分岐点がこの時期に重なっているのはおそらく偶然ではない。


近代文学も演劇も70年代、もっと突き詰めると1968年に一つの分岐点を迎えたとして、それ以後のものが悪いというわけではないのだろうけど、それ以後の作品が『あえてそれ以前のものから遠ざかる』という意識の元で作られていったと推測するのならば、1968年以前のものについてきちんと決着をつけないまま別の場所に移動してしまったと考えられなくもないわけで。だからこそ今、以下に引用する宮沢章夫さんの問題提起が重要なのではないのか。


『それで私が考えたのは、六〇年代のいわゆるアンダーグラウンド演劇と呼ばれたもの、あるいは、小劇場運動と呼ばれた演劇は、「新劇を否定するのにきわめて性急だった」ということだ。「新劇」を「近代」と書き換えたほうがわかりやすくなると思うが、六〇年代の演劇人が考えていた以上に、「近代」は分厚かったのだし、そして、「新劇」によって「近代」が明確に成立していたわけではけっしてなかったという歴史だ。六〇年代の「反近代(=アンチモダン)」にしろ、八〇年代から九〇年代にかけての、「ポストモダン」にしても、「近代」が強固に存在することを前提にしていたが、ほんとうにそうだっただろうか。このところ私は、「演技」や「方法」について考えては迷路に入りこんでしまったようにとまどうことが多く、「新しい」という陳腐なものではなく、また異なるもうひとつべつの方法(=オルタナティブ)がきっとあるはずだと考えあぐんでいたが、気がついたのは、「あらためて近代をちゃんとやり直す」ということで、新幹線で東京に向かう途次、それはおそらく、静岡あたりだったと思うが、ふっと演技論がそこに及んだ。つまり、「新劇」の「近代」はまだそれほど、「近代」ではないし、かつても「近代」ではなかった。どこにも「近代」など存在していなかった。だからこそ、この国の演劇にスタンダードは成立することがなかったにちがいない。
だとしたら、「あらためて近代をちゃんとやり直す」にはなにが必要とされるか。


これは宮沢章夫さんの日記の2004年7月27日『サヨナラ京都』の中の一節。ずっと気になっている文章だ。今、改めてこの文章を読むと自分なりにすごく理解できるのは、新劇が日本に登場したのが明治の初期、1900年頃だとしたらわずか70年しかたってない時期に「これ違うんじゃないか」と否定されてしまったわけで、結果を出すには早すぎた感もある。ただ、70年経っても海外ものをやるに終始して肝心の「日本人とはなんなのか」というところに新劇が辿りつけてなかったからこそ見捨てられてしまったとも考えられなくもない。いずれにしても、宮沢さんが考えるように「新劇」がまだきちんと定義づけされるまえに否定されてしまったとするならば、改めて日本における新劇を考えることは決して無駄ではないはずだ。


■ だから宮沢章夫さんがこの前やったリーディング公演『鵺/NUE』は非常に興味深い。シアタートラムが企画している『現代能楽集』は「芸術監督野村萬斎が企画する、古典の智恵と洗練を大胆に現代に還元しようと始めた」ものらしい。おそらくこの作品の中に「あらためて近代をちゃんとやり直す」宮沢さんなりの一つの解答が観られると僕は想像する。題材として扱われている謡曲『鵺』はそれこそ遥か昔からあるもので、新劇とは直接結びつかないわけだけど、『鵺/NUE』では清水邦夫さんの戯曲からの引用が多数あるらしく、ここに古典と近代、そして現在が繋がるものを僕は感じる。で、『引用』に関して宮沢さんは2006年2月6日の日記でこう語っている。


『「反復と変奏」の時代は来るべくして来た。過去の戯曲の新たな解釈という名の上演(=非主体化=従属化)ではなく、またべつの方法があるとしたら、それが「引用」と、「引用のやり方」になる』


『鵺/NUE』が古典をベースにかつてあった戯曲の新たな「引用のやり方」による演劇として展開されているならば、ここに新しい演劇の形があるのではないか。まぁ憶測なのですが。というわけで「鵺/NUE」はやはり観たかった。この本公演は11月か。先だなぁ。



■ まぁ、いずれにしても新劇に関して、というかこうなってくると近代演劇史をもっと勉強したいなと思いました。