東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

近代文学と今

はてなダイアリーを頻繁に見るようになって、ここ最近で一番の収穫は『成城トランスカレッジ.COM』(http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/)というホームページを発見できたことだ。

このページの管理人の方が、様々の講演会に行き、その講演の記録をとっているのだけれども、それがとても勉強になる。その講演の記録のうち柄谷行人さんの『近代文学の終焉』(1)、スガ秀美さんの『21世紀の問題を考える』(2)、渡辺直己さんの『1968年の文学から現在へ』(3)の3つを読んだ。この3つの記録から近代文学についていろいろ考えさせられた。そのことについて引用させてもらいながら、すこし考えてみたいと思う。

そもそも近代文学坪内逍遥が小説に言文一致体を持ち込み、作品に内面や風景を入れていこうと考えて『小説真髄』や『一読三嘆戸妬当世書生気質』などを書いたあたりから起こったそうで、これが明治10年代後半だそうだ。で、この近代文学はネーション(ここでは国民主義と訳されている)、つまり国民国家の形成に一役買ったと考えられるというのです。つまり小説に『内面』や『風景』の描写を入れていくことで、読んだ人たちが、自分達は日本人で、このような場所でこのように生きているのだと感情移入していくことで、返って自分達を知るというようなことかもしれません。

で、そもそもなぜ近代文学がそのようなネーション形成に役立ったのかということに対して、近代文学が誕生した時代背景に理由があるとスガさんは言っていて、それはその時代、自由民権運動の真っ只中だったということで、そのような流れを近代文学はモロに汲んだと推察されています。とにかく近代文学が人々に与えた影響は大きいものでした。

で、この近代文学はしかし現在では、機能していないとそれぞれの方々は言っています。言い方を変えると近代文学は役目を終えた、それは近代文学の終焉であるとも言えるそうです。その理由としてそもそも近代文学がどのようなものかということをそれぞれ以下のように表現しています。

近代文学は崇高であると――。崇高は不快を通した快です。近代文学が快感原則の彼岸、つまり崇高を求めていたと言います。現代の小説はハッピーエンドしかないが、文学は基本的にしんどいもの。しかし不快を快に変える想像力を味わうと、普通の快がバカバカしくなる。これは別に神秘的なことではなく、フィジカルな問題です。そして近代文学の読者はそのような快を求めていたのではないかと』(1)

自由民権運動に関わってきたのは、壮士と呼ばれる人々、つまり書生のことですが、「運動会」と称して歩きながらワーワー騒いで酒を飲んでいたわけです。ところが「祭(自由民権運動)」が終わった。木村敏的に言えば「ポスト・フェスティバル」ですよね。その後に『新体詩抄』、そして『小説神髄』が出てくるわけですが、そこで出てくるのは、本居宣長からくる「もののあはれ」ですよね。「ポスト・フェスティバル」、つまり「祭」が終わっちゃって、叙情詩的なものが誕生した、小説も「もののあはれ」だというようになった。これって、要するに「鬱病」ってことですよ。「鬱病」が「国民」だってことです。近代的なネイションステートというのは、壮士とか書生とかでワーワー騒いでいてはダメで、内面をもった近代的な人間じゃなきゃいけないと言った。それは「鬱病」的な個人になろうってことです。それを作るために文学があったわけですよね。柄谷さんも内面の発見と言っていますが、近代文学は「鬱病」的な個人を作ることだったんです。』(2)

『「ベストセラーは読んだ人を安心させるもの、文学は読んだ人を不安にさせるもの」』(3)

これらの例えを見ると、近代文学っていうのは、変な言い方を取っ付きにくいものと判断されてしまったのかもしれない。その辺のことは渡辺さんも言及していた。他にも資本主義がグローバル化されているのも一因ともされる。
ただ近代文学が終焉したとて、それはある意味仕方がないことではある。インターネットが普及し、携帯を1人1台持つ時代、戦争の映像をテレビで見れる時代の価値観と明治時代に生きた人の感覚がずれていないほうがおかしい。それでもなお、今この時代に近代文学の終焉を問題視するのは、つまり今の時代にある文学がきちんと確立されていないからなのだと彼らは言っているように思う。そういう観点から彼らは70年以降、特に80年代からのポストモダンの時代の小説に対して痛烈な批判をしている。

文学に変化が生まれたのは70年前後で、これがやはり68年辺りであることに注目したいわけだけれども、この辺りの時代に一度社会全体を一度見直そうとした動きがあった。で、それがいい方と悪い方に流れたのではないかと思われる。いい方では、やはり今一度文学について考えようという動きが生まれたことではある。例えば渡辺さんのこの部分は物語を書く上で大切なヒントである気がする。

『68年は、日本のヌーヴォー・ロマンと言える。ヌーヴォー・ロマンがしたことは、実はフローベールを徹底して読み直すことだった。つまり、近代小説の歴史の中に常にあった、潜在的にあったものをくみ上げていくことだ。小説と言うのは、「叙述」だけがそこにあるものである。潜在していた物を汲み上げる…それは機知の内から未知を見出すことだ。』(3)

ただ68年に確かに世界的な運動はあったものの、例えばベトナム戦争は終わらないし、日本でも社会はそれほど変化しなかったりもし、その68年の動きっていうのはむしろその当時を生きた人たちからしたら、あまりいい思い出になっておらず、隠していたいものになっているのではないだろうか。
その辺と近代文学の取っ付きにくさが相まって、以後「如何に近代文学から離れるか」が目的のようになっていき、急速なポストモダンへの移行が起こったのではないか。ちょうど日本全体も景気がいい時代だし、古臭いと思われがちなものから脱皮したいというのがあったのではなかろうか。その変化の例としてこの辺から文学に『親殺し』がなくなったのではないでしょうか。

ただ結局のところ『親殺し』が作品から姿を消したとしても、その『親殺し』をしてしまうような情念が消えているわけではない。スガさんの言葉を引用するなら『じゃあ、現代の私たちは鬱病を克服したのか』という疑問が出てくるわけで、これはやはり否なのではないか。というかこれはならない時はあっても、なくならないものではないか。つまり現代文学っていうのは、近代文学から距離を置く試みはしたものの、それは近代文学を総括したわけではない。鬱病の治療方法を研究したわけではなく、鬱病にかかりづらい場所へ移動しただけで、根本的な解決を見てないのでは。

で、ここで宮沢章夫さんの不在日記2004年7月27日を引用したい。宮沢さんはだからこそ近代を見直すべきだと考えている。

『ただ一点、問題にすべきは、太田さんの話にしても、そして、九〇年代の僕が持っていた考えにしても、議論の基点に「新劇」が存在することだろう。どうしていつまでも私たちは「新劇」を問題化していたのか。それで私が考えたのは、六〇年代のいわゆるアンダーグラウンド演劇と呼ばれたもの、あるいは、小劇場運動と呼ばれた演劇は、「新劇を否定するのにきわめて性急だった」ということだ。「新劇」を「近代」と書き換えたほうがわかりやすくなると思うが、六〇年代の演劇人が考えていた以上に、「近代」は分厚かったのだし、そして、「新劇」によって「近代」が明確に成立していたわけではけっしてなかったという歴史だ。六〇年代の「反近代(=アンチモダン)」にしろ、八〇年代から九〇年代にかけての、「ポストモダン」にしても、「近代」が強固に存在することを前提にしていたが、ほんとうにそうだっただろうか。このところ私は、「演技」や「方法」について考えては迷路に入りこんでしまったようにとまどうことが多く、「新しい」という陳腐なものではなく、また異なるもうひとつべつの方法(=オルタナティブ)がきっとあるはずだと考えあぐんでいたが、気がついたのは、「あらためて近代をちゃんとやり直す」ということで、ふっと演技論がそこに及んだ。つまり、「新劇」の「近代」はまだそれほど、「近代」ではないし、かつても「近代」ではなかった。どこにも「近代」など存在していなかった。だからこそ、この国の演劇にスタンダードは成立することがなかったにちがいない。』

近代ってなんなんだろう。逆にポストモダンってなんなんだ。でもいろいろな人が今、そこを考える焦点にしている気がする。別に今の文学を否定する気はない。世界の中心で愛を叫んだって構わない。ただもっと違うものもある気がする。強い光を当てたら、物ははっきり見える。でも、その強い光のためにその周りにある微かに光っているものが見えなくなってしまう。注目すべきは、僕達が見落としてしまうような微かな光の存在。微かでも何かを伝えようとしているそういうものなのではないか。まぁ何にしても、まだまだ勉強不足だ。もっともっと考えなきゃいけないことがたくさんある。