東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

台風の朝

関東や東海、日本の真ん中あたりを台風が直撃する。いよいよ他人事ではなくなるわけだけど、それにしてもやはり今年は台風が多い。

というわけで夜勤明けの朝なわけですが、昨日の夜はずっとリーディングで書いていた台本の手直しをしていた。一応脱稿。果たしてこれが完成型なのかは、今のところまだよく分からない。たとえばもう少し経ってから、何か思いつくことがあったら書き加えるかもしれないし。でもとにかく一区切りをつけた。今回はすべてパソコンで打っているので、文字数を見てみると29000文字くらいだった。400字詰め原稿用紙にみっちり詰め込んで約75枚か。今まで書いた台本に比べると文字数は確かに多い気がするけれど、リーディングを前提にしているから、実際の上演時間はやはり1時間30分前後だろうから、いつも僕がやっている時間くらいだ。でも小説と比べたらこれはそれほど大した量ではないんじゃないだろうか。そうするとやはり小説を書くのは大変だなと思う。

もちろん今回の作品は小説とは程遠い形態だし、かといってきちんとした戯曲でもないわけで、また異なる形で存在しているのだけれども、小説にするにしても戯曲にするにしてもまた違う文章の作り方があるのだろうし、そういうことも考えていかなくてはいけない。今回の収穫としては、やはり文章の勉強がまだまだ足りないということ。もっといっぱい本を読まなくてはいけない。

それにしてもパソコンで文字を打つことに慣れてきた。今回は初めて台本をパソコンで書いた。以前までは鉛筆で書いていたんだけれども、今回は鉛筆で書くことがめんどうくさくなっていた。それはこうやって日々パソコンで文字を打つことを続けている賜物なのかもしれないけれど、それ以外にも理由はある。東京で芝居をする場合、いつも必ず外部からの介入がある。スタッフさんなど。その人達に、手書きの汚い台本を渡すのはなんだか失礼な気もするし、本番時の作業も見やすいほうが便利だ。役者さんもわざわざ頼んでおいて、汚いのは渡せない。大学の頃は全部内内で片付くので、まったく気にしていなかったけれども。もう一つ理由を挙げるとしたら、少しずつブラインドタッチができるようになったおかげで、早く打てるようになったからだと思う。台本はほとんど台詞なので、書いているスピードで一番理想なのはしゃべっている早さで書けることだと思う。つまり勢いで書く。その点は鉛筆よりもパソコンが早い。だからきっと今回の台本にしても、パソコンのスピードで書いていたから出てきた言葉もあるのかもしれない。考えていなかったのに、自然に手が書いていたというようなことが、たまにある。きっとそういう時はそういう感情にまかせて書いたほうがいいのではなかろうか。もちろんあとで何度も推敲する必要はあるけれども。

話は変わり、宮沢章夫さんの不在日記10月7日に『演劇は終わっている』という見出しで書かれている文章があった。柄谷行人さんの「文学の終焉」を用いて演劇について言及している。例えば、こういうことを一切無視して演劇に向かうことはいくらでも可能だ。というかこういうことを意識して演劇を続けている演劇人は果たしてどれほどいるだろう。僕だって全然考えきれていないし。そういう意味で、最近東京で騒がしい小劇場というわれる括りの演劇は演劇とはべつのものなのかもしれない。あと高校演劇もそうだ。と、いうか高校演劇はもう、高校演劇という新たなジャンルになっている気もする。それが悪いとはいわないけれども。僕の周りにも難しく考える演劇から遠ざかろうとする人がいっぱいいる。別にそれは構わない。僕だって小難しい演劇をやりたいわけじゃない。ただ一度そこを通り過ぎるべきだと思う。そこをきちんと学んだ上で、そこから遠ざかるのと、何も知らずに、ただなんとなくそう思うというだけでそこに近づかないというのでは、まったく違う。これを遠回りと言われたら、返す言葉はないけれど、そういう道を僕は進もうと思う。そうすることで得ることができるものもあるはず。宮沢章夫さんの今日の日記のことは、演劇を続けていこうと思うから、考えていきたいと思う。日々之修業だから。それにしても自分はあまりに浅薄なところで、芝居を考えてきたのだなとつくづく思う。本当になんも考えずに芝居をやってきていた。それを否定する気はまったくないんだけれども、これからは出来る限り考えていきたいと思う。