東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

坂本龍一さんの旅

雨は止んでも寒い日々だ。昨日の夜、リーディングに参加してくれたM君から電話が来た。驚いたことにM君は23日土曜日に新潟の長岡市にいたそうだ。M君は被災者だった。M君が語ってくれた、その時の様子はテレビで知ることが出来る情報としての事実とは異なる印象をくれる。その時、M君は長岡の駅前にいた。地面が波打つような衝撃があったそうだ。いつまでも続く余震が続く。だんだんといつもの地震と違うという実感が沸いてくる。周りにいた若い女性の集団の顔色が変わっていく。恐怖が積み上げられていったそうだ。長岡市は水道と電気がすぐに復旧したそうで、それほど混乱はなかったらしい。今でもいわゆるライフラインが失われている地域がある。それもまた震災なのだ。紙一重で自分が今、生活している。本当にそれは運でしかない。

日曜の夕方に、テレビで坂本龍一さんが日本を旅する番組があった。坂本龍一さんは9・11の時にまさにNYにいた。NYに住まいを持つ坂本さんは、それを目撃したことで、再び日本に住むことを考え出した。そんな坂本さんが日本で、自分の未来(の住居)を探す旅をするという趣向だ。旅した場所は青森県三内丸山遺跡、北海道上士幌、沖縄県西表島。それぞれ縄文時代の遺跡、アイヌの聖地、マングローブの広がる日本最後の秘境だ。まず三内丸山遺跡へ向かうのだけれども、驚いたのはそこにゲスト、というか坂本龍一さんの親友である、中沢新一さんが出ていたこと。中沢新一さんと坂本龍一さんは親友同士だったのか。知らなかった。狩猟が中心だった縄文時代。しかしその遺跡から発見された住居跡は、移動しながら生活したとされる人々の住居とはいえとても立派なもので、縄文時代の文化水準の高さを伺わせた。そこで2人は狩猟採集の喜びを知る。狩猟は自然からの恵みをもらう。採りすぎは、自然の全てを奪うことに繋がり、めぐり巡って自分達の恩恵を減らすことに繋がることを知っていた縄文時代の人々は、取り過ぎることをしなかった。「自然を兄弟と考えていた彼等は、兄弟の全てを奪うことをしない。」そう言う中沢新一さんの言葉に坂本龍一さんは耳をすませる。

アイヌの文化も精神性が高い。縄文の伝統を受け継いで生きるアイヌ。「人間も神も、自然もすべて同等」という精神で生きる彼等。鮭を狩る時、彼等は必ず鮭と一対一で、正装を身にまとい槍一本で対峙する。鮭に対する敬意の表れだ。鮭はアイヌの言葉でカムイ(神)チェブ(魚)と呼ぶ。神が鮭の皮をまとっている。食べるという行為を通して、その服を脱がし、向こうの世界へお送りする。アイヌのそういう、食物に対する考え方。かつての先住民は世界中で同じような考え方を持っていた。森の神とされる熊も、神様が毛皮をまとって別の姿をしていると考えられており、熊を狩る時は槍で向かう。それが熊に対する敬意だった。そういう思想が人種を問わず、全世界の先住民族の間で当然のように考えられていた。しかし、時代は進み、人間は銃を持った。バランスが失われた。

東洋のガラパゴスと例えられる生態系を持つ西表島マングローブの生える原始の森。そこにはカンビレーの滝がある。カン(神)ビレー(座る)の滝。そこは神々の座する所。人間が誕生するはるか昔からその森はあり、人間が刻んだ時間など関係ないよと言いたげに悠然とあるその森を、自然を、坂本龍一さんは「のんびりしている」と表現していた。西表島に伝わる伝統的なものとしてある染め技法、海晒し。衣服を海の潮やオゾンの力によって染めるもの。染まり方は、その日の日差し、波、潮の加減で変わる。全てを自然に委ねる。西表島の文化伝承者である石垣さんは今、食べ物の食べ方が間違っているという。本来、自然のものを増やすように食べなければならないという。必要になったら、必要な分だけ自然から貰う。それは本当に必要な分だけ。それが本来の正しい食べ方だという。そこには縄文時代や、アイヌの精神性と確実につながっている。

安易なネイチャー思考ではない。そもそも自然にあるものを人間が支配することは不可能で、きっと人間が作ることができる『便利』はそれに取って代わるものにはなり得ない。あくまで、ただ『便利』だというだけ。もちろん僕はその『便利』に恩恵を貰って生きているわけで、例えば今、いきなり縄文時代の生活をしろと言われたら、それはできない。それでもその精神性は学ぶに値するもののはず。

僕は日本人の思考が好きだ。キリスト教や仏教のような唯物神ではない。山には山の、川には川の、石には石の、一つ一つに神様がいると考える。だから至る所に神社を、稲荷を作る。ちょっと前のテレビ番組で、どっかの村に住むおばあちゃん達がお経を唱えた後に、神社にお参りに行っていることを、アナウンサーにどうしてと聞かれて答えた言葉。「どっちでもいいんだ」それは適当さから出た言葉ではない。いや、案外そうなのかもしれない。神様はどこにもいる。どっちも祈る。それに優劣はない。

自然といわれる何かに触れる時。どこかいつもと違う面持ちになる。普段信仰のない僕でも、神様のような存在を感じるような気になる。それは畏怖だ。恐怖でもなく、まったくの嘘でもなく、無関心でもない、漠然としたものだけれども、驚きにも似た感情を抱く。自分の理解を超えた存在を感じる。宗教を信じるとかそういったこととは似て非な感覚。言葉にしたら安易なものになってしまうけれども、それは確かにそこにある。

新潟で余震が続いている。地震は怖い。きっとそこにいる人たちの恐怖は、僕には計り知れない。せめて少しでも早く、そこにいる人達のその恐怖が拭えることを願いたい。