東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

偉大なる野生

最近、長渕剛のせいで野生について考えてばかりいる。

「最近、野生が失われていないだろうか?」

そんな疑問を抱いてしまった長渕剛が、平成の世に訴える野生回帰。野生。その響きは時に男を魅了して止まないのだろうか。それにしてもなぜ、長渕剛は野生についてそれほど深く考えているのだろうか。そもそも野生とはなんなのだろうか。はたしてどんな状態を人は野生と呼ぶのか。考えてみると意外と分かりづらい気もする。昨日引用した長渕剛最新シングルの記事による「野性的で、標的を定めたら食い殺すまで猪突(ちょとつ)猛進する。」という姿が野生なのだろうか。これが失われていることは、平成のこの世でそれほど問題視されることなのかは、いささか疑問に思うが、長渕剛にしてみると重要なことなのだろう。

野生について考えていかなくてはならない。やはり少しくらいは。さすがに上記した例をそのまま鵜呑みにしてしまうと、ジャングルに帰れよ、というくらいしか言えないけれども、もっと平成の世に合わせた野性があるのではないのか。

「平成の野生」もしくは「身近な野生」

それはちょっとしたことの中に潜んでいる気がしないでもない。例えばこんなのはどうだ。

「あえて日陰に佇む」

世間はもう冬だ。できれば日向に行きたい。そこをあえて我慢してみる。なぜって日向は敵の視界に入りやすいから。敵って誰だよ、という疑問は無論発生するものの、敵が誰かはこの際問題にしない。敵はどこにだって潜んでいる、はずだ。ちょっと寒いくらいなんだ。敵に姿を見せないというところに野生は存在している。こんなのもどうだ。

「ステーキの焼加減は常にレア」

じゅうじゅうに焼かない。血がちょっと滴るくらいがうまいの精神。できることなら生でいってほしいところだけれども、さすがにお腹を壊してしまう恐れもあるので、ちょっとは火を通しておこう。どうも煮え切らない、もっと野性味が欲しい。もっと野性的に食べたいと思う方には、こういうのはどうだろう。

「りんごの皮をむかずに食べる」

ガリッといく。どこか野生の血が騒ぐ。切り分けられたリンゴなんてまどろっこしくて食えたもんじゃないというイナセな方にはお勧めだ。ただやはり農薬の心配があるので、誰かに見られないうちにこっそり水で洗っておくことがミソだと思う。その他にこんなのはいかがか。

「睡眠時間は毎日2時間」

果たしてこれは野生なのかと言われると少し違う気もしないでもないけれども、ある意味野生的である気がする。勢い的には、たまに「今日はもう寝なくていいや」とそのまま平然とその日をやり過ごせるくらいのアレでいてほしい。他にもこんな野生はどうだろう。

「読む漫画は『週刊マンガゴラク』だけ」

一部に受ける野生。そんな野生があっていいのかは疑問だが。

こう考えると野生は大変だ。何かを「我慢」してこそ野性なような気がする。本当にそうだろうか。「我慢」とはまた別の野生も存在するのではないだろうか。例えばこれはどうだろう。

「いつも睡眠時間が22時間」

上記した野生とはまったく正反対だ。しかしそこに何か野性的なものを僕は感じる。その他にも例えば長渕剛で考えてみて、でっかいコンサートをやるとする。1万人を動員するコンサートだ。今年1年を締めくくるコンサート。全国からファンが楽しみにしてやってくる。長渕剛はその日のために、死に物狂いでリハーサルを積み重ねる。スタッフもそんな長渕剛の姿勢に心を打たれる。いいコンサートにしたい。本番まであとわずか。時間を削ってリハーサルを繰り返す。それでもまだ足りない。本番まであと3日。長渕剛は思った。

「俺はもう寝ないで、死に物狂いで作りこんでやる。」

そんなことをもしも思われたら、確かにそこに野生を感じずにはいられない。しかしそこにはやはり「我慢」を感じる。そうではない野生もあるのではないか。例えばそれはこんなのではないか。

「本番まで一度も練習しない」

とりあえず本番までだらだらしてみる。長渕もスタッフも。歌詞も覚えない。ギターも弾かない。バンドもなあなあで集めてみる。スタッフも3人くらいでやってみる。なんならもう歌わなくていいかな、ぐらい思ってみる。今年一年を締めくくるコンサートだけど、「なんとかなる気がするなぁ」ぐらいの感じで日々を過ごしてみる。もしもそんなことをされたらどうだろう。なんだか寝ずに作りこむのとは、まったく別の野生がそこには感じられないだろうか。

偉大なまでの野生。

もはや一般人の想像の及ばないトコロで行動する。そこに野生を超えた野生を感じてやまない。僕が考えたい野生はそこにこそある。想像を超えた野生。それは普通の顔して実はとんでもないものなのではなかろうか。