東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

でらしね

■ 昨日の映画の日は、というわけで映画を見たのでした。まずはジュ−ド・ロウ主演の「スカイキャプテン」を有楽町で。全編CGを多用した映像で、キャストはほとんどのシーンをブルーバックのスタジオで撮影をしたらしい。これは今年の夏に公開された日本映画「CASSHERN」と同様の撮影方法。で、僕はこれが単純で面白かったわけです。前半の意識したレトロな雰囲気。NYの町並み。そこへ飛んでくる謎のロボットなど。あと意味もなく眼帯をしているアンジェリーナ・ジョリーがチョイ役なのにカッコイイあたり。

■ ちょっと前に見たウィル・スミス主演の「アイ、ロボット」も同様にCGが多用されていた映画なのにも関わらず、もう飽きた感じを受けたのに、むしろ凡庸な冒険活劇の「スカイキャプテン」の方が面白いと思えたのは、個人的な視点から言わせて貰うとCGを使うことへの意識の違いにあるような気がしたわけです。

■ こういう系統のハリウッド映画を、素人ながら大まかに分類するなら、遊園地の乗り物のような映画ではなかろうか。驚きという楽しさを観客へ提供する。例えばそれがジェットコースターだとすると、CGの導入でそれまでは不可能と言われた急斜面の降下や急カーブの設置などが可能になって観客により一層面白いジェットコースターを提供できる技術が開発されたようなものではないか。で、製作サイドがここぞとばかりに飛びついてジェットコースターが大量に作られた。それはそれで創意工夫されて面白いわけだけど、ジェットコースターばかり遊園地にあっても飽きてしまうものだ。あくまでも個人的な意見だけど「アイ、ロボット」はより性能のいいジェットコースターを作る方向を目指していた。「スカイキャプテン」はCGを全肯定していながら、その利点を生かしてジェットコースターに代わる乗り物を作ろうとしていたのではないか。ディズニーランドにある乗り物で例えるならばスターツアーズのようにジェットコースターに取って代わる乗り物のようなものを。そこにCGの方向性を探ろうとする意思を感じる。その点で「スカイキャプテン」は僕にとって良かった。冒険活劇としてなら「インディジョーンズ」に劣るかもしれない。だけど作り手に新たな方向性を模索する気概を感じるのだ。「CASSHERN」も同様。「アイ、ロボット」にはその辺が僕には物足りなかった。ただ、もうそれも十分。「スカイキャプテン」のようなものも見飽きた。さらに次の方向性が問われてくる。シリーズものも、歴史物のスペクタクル大作も、「〜VS〜」も、ホラーもリメイクもやりつくした感がある。そしてCG多様もマンネリだ。一体次はどのようなものが出てくるのか、それはよく分からないけれども、「次のハリウッド映画」が出てくるはずだ。映画はそうやって変容していく。いささか偉そうな感じになってしまった。

■ で、もう一本見た。中原俊監督作品「でらしね」。東京ではお台場のメディアージュという映画館でしかやっていない。この映画を見たいと思ったのは主演女優の黒沢あすかさんが好きだから。黒沢あすかさんを見たのは塚本晋也監督作品「六月の蛇」の一本だけだが、そこに出ている黒沢あすかという女優に圧倒された。女性が持っている魅力を、時に強く、時に弱く、時に魅惑的に表現できる方なんじゃないだろうか。あと、これを言っちゃうとただのスケベな男になってしまうのかもしれないけれど、この女優の身体が単純に美しい。「六月の蛇」でも「でらしね」でも黒沢あすかさんは、その身体を惜しげもなく曝け出しているのだけれども、その身体は性的なもの以上の美しさを感じる。身体はかなり鍛えられているけれども、女性のしなやかさを失っておらず、かといってグラマラスとも違う美しいさを兼ね備えている。最初、こわばった表情で裸になっていくが、次第に恍惚の表情へ変わっていき、最後には臆することもなく堂々と立っている。その危うさから揺るぎなさへの変貌。ぐっと引き込まれてしまう。

■ もう一つこの映画の魅力は、絵画として描かれる自然の木々と黒沢あすかさんの身体だ。この映画は架空の絵描きの男性(この役を奥田瑛二が演じる)と黒沢あすかさんが演じる女性バイヤーが、やがて南アルプスの自然の中で、絵を描く・描かれる、の関係になる物語。裸の女性としての黒沢あすかさんを奥田瑛二が描くわけだけれども、奥田瑛二さんは実際に絵を描かれる方だそうで、映画の中の作品も本人が手がけている。だからこそなのかもしれないし、監督やスタッフのロケハンの賜物なのかもしれないけれど絵に描かれる自然、特に木々は本当にすごくいい木を選んでいる。それは一本の細い木だったり、枝分かれしている木だったりするのだけれども、その枝分かれした枝が撓っていたり、捻じれていたり、窪んだ穴があったりしてなんとも言葉に表現出来ないけれどもいいわけです。自然を愛するとかそういった甘っちょろいことではなく、僕なんかが及びもしないほどの年月を生きている自然の木々の、その「生きている」姿を如実に現している木々を見事に選び抜いている。その木々に黒沢あすかさんの美しくしなやかな身体が覆いかぶさる。同化していく。

■ それで僕はかつて読んだガウディの建築の本を思い出した。アントニオ・ガウディはスペインのバルセロナにあるいまだ未完の建築サグラダ・ファミリアで有名な建築家であるけれども、ガウディの設計する建築は現代のビルに見られるような平面的・幾何学的な要素が見られず、意図的に丸みを帯びていたり、波打っていたり、皺がよっているような建物が多い。「不思議な建築〜甦ったガウディ」(講談社現代新書)の著者下村純一さんはガウディの建築を以下のように書いている。長くなるけど抜粋。

「ガウディの建築は、合理的な構造や民族性という明確な根拠に裏打ちされた造形であると断言できるものの、やはり奇妙な不思議な形という印象が彼を限りなく魅力的な存在にしていることに変わりはない。不思議さの元は、彼の建築に備わった動きにあるのではないか。それはリズミカルでスピード感や爽快感を呼ぶ機械的な動きではなく、うごめく、膨らむ、しわが寄る、波打つ、うねると言った生物や大自然の営みに立ち現れる動きである。建築表現に動きが与えられることだけでも、普通では考え難いのに、ガウディはむしろグロテスクな印象を与えかねない不規則な動きを、積極的に表現の中に織り込んだ。」

■ 人間の体が美しく見えるとき、それは筋原繊維、つまり筋肉のうねりが表面に現れたときではないだろうか。だから彫刻の裸体の人間は、その体がうねっているものが多い。そこに生命を感じるから。ガウディ本人も「建築は生命ある造形ヴィジョンだ」という言葉を残している。木々のうねり、しなりもそれを感じさせる。そしてその自然の「生」の中に美しい女性のしなやかな「生」が交じり合う。「でらしね」にはちょっと大げさな言い方をすればそういう「生命の躍動」を感じた。

■ この映画の中原俊監督は、現在上映中の「笑いの大学」の三谷幸喜の代表戯曲「12人のやさしい日本人」の映画版や「櫻の園」で有名な監督だし、優れた俳優も脇をかためている。何気にでていたホームレス役が黒澤明監督の「どですかでん」でも浮浪者を演じた三谷昇さんだったし。これがまたいい味だしてる。これほどの上質な映画なので、もっといろんなところでやればいいのにと思うが、全国ロードショーってなると難しいもんなのだろうか。そこにも商業としての映画が要求される。そりゃそうなんだろうけども、もったいないよ、本当に。