東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

佐賀へ行く

■ 週末から今日までずいぶんバタバタしていた。今、夜勤で会社にいるけれども、それでも一息ついたような気分だ。先週末のことをまとめてみる。

■ 3日(金曜日)。夜に阿佐ヶ谷の喫茶店ヴィオロンに徒花*という劇団の公演を見に行く。前に友人が出ている公演をたまたま見に行って、とても面白かった劇団だ。ヴィオロンという喫茶店は東京でも数少ない名曲喫茶の店だが、ユニークなお店で申し込みをすれば喫茶店内で公演が出来ることになっている。雰囲気がとてもいい店なので週末には詩を読む人や、ピアノを弾く人、ギターの弾き語りやリーディングなど、いろいろな公演が行われる。実は去年の4月に、僕も友人Fさんに誘われてリーディングに役者として参加したことがあり、馴染みがないわけでもない。ただ演劇の公演をするには正直狭いので、どのように芝居を行うのだろうと思ったが、設定が喫茶店と直球勝負で挑んでいた。でもトイレや出入り口をうまく利用していたし、名曲喫茶の雰囲気も取り入れた見ごたえのある芝居だった。同世代の方で、こんな作品を作っている方がいることはとても刺激になる。僕もいいものを作りたい。

■ 4日(土曜日)。今月は土曜が出勤。日・月が休み。火曜が夜勤というシフト。仕事に行った後に、新宿で友人Yくんに会う。4月の方の芝居で使いたいと考えている映像を今年の内から撮っておきたく、ビデオカメラを借りる。で、Yくんには4月の公演に役者として参加してもらおうと考えていたので、そのことも少し話す。あとはくだらないこともいろいろ話した。面白かった。ただ問題も発生。実はこの時点で、前回書いたように祖父の訃報が届いていたので、本体ならば一刻も早く実家がある佐賀へ向かう必要があったのだけれども、告別式が5日の昼からということなり、仕事も重なったので佐賀へ向かうのは5日の朝一にした。本当は5日に映像に使う素材の撮影をする予定だったのだけれども、それはキャンセル。とりあえずカメラだけはその後の撮影のことも考えて借りておく必要があったので借りたけれども、撮影が延期になったのは痛い。

■ 5日(日曜日)。祖父の告別式に出席する為、佐賀へ。羽田空港を6:30に出るスカイマークエアラインズで博多空港へ行く予定だったが、東京を強風が襲う。びしょぬれになりながら始発電車にのり、空港に駆けつけたのにあえなく欠航になる。愕然としたのは、これに乗れなかったら告別式に間に合わない恐れがあったから。次の便8:10発博多行きに振り返られたことを、先に実家に行っている父親に連絡してから、とりあえず待合室で横になる。8:00過ぎた頃には明け方の強風と豪雨が嘘みたいに止む。少しだけ出発時間が遅れたが、なんとか飛び立つ。10:45頃博多空港に到着。すぐさま地下鉄に乗り込み博多駅へ。そこから特急に乗って佐賀へ。本当ならばそれほど急がなくてよかったはずなのに、やけにバタバタする。特急に乗ってからやっと一息つく。窓にうつる風景が、徐々に記憶にある風景に変わっていく。子供の頃は飛行機嫌いの母のおかげで、新幹線で博多に行っていたので、九州はえらく遠い場所だと感じていたが飛行機でわずか1時間50分。北海道に行ったり、車で旅をしたりすることを経験した今、なんだかそれほど遠く感じなくなった。肥前鹿島という最寄り駅からタクシーに乗る。タクシーの年配の運転手の方が聞き覚えのあるイントネーションで場所を聞いてくる。そんなことで佐賀へ来たことを実感する。そして車を走らせる。風景を目の当たりにすることで、かつて車を走らせた記憶が甦ってくる。あれから数年。こんな理由でまたここに来るとは思わなかった。

■ タクシーが実家に着いたのは12時30分頃だった。飛行機が飛ぶ前に連絡した時に、父から告別式は12時からだと聞いていたので、最初から出ることは無理と分かっていたが、火葬場へ向かうのは13時過ぎだと聞いていたので、それには間に合った。家の前に椅子が並べられて弔問客の方が大勢座っていた。告別式は実家の客間で行われているが、そこには身内が並ぶ。入りきらないその他の弔問客の方が家の前に用意された椅子に式に列席するという形だった。すでに式が始まっていたので僕は外の一番端のほうで立っていることにした。外にはお経や挨拶がマイクを通して聞こえるようになっていた。近隣の住人の方々がずいぶんいた。有明海沿い干拓にあるこの土地は、戦後の農地改革の際に希望者に提供されることになった土地だ。もちろん希望者は多数あり、抽選で選ばれたものに土地が与えられることになる。祖父はその抽選で土地をもらうことができて入植した有明干拓の第一期入植者の一人だった。今年が入植してちょうど50年目だった。今でもこの土地にはそうやって共に入植した人やその家族が住んでおり、そういった繋がりは今でも残っている。

■ お経が終わると、親族代表の挨拶があったが、それを父がやった。マイクから聞こえる父の声は震えていた。泣いていることが分かった。父は死に目に会えなかった。祖父の容態が急変したという知らせを聞いたとき、すでに時間が遅く、東京から羽田へ向かう手段がなかった。次の日の朝一番に向かうことにしたが、結局祖父はその日の夜に亡くなった。僕は父が泣いている姿を今まで見たことがなかった。そうはいっても何があっても泣かないような強い人ではない。寂しがりやな人ではあったが、それでも僕の前で父は泣いたことがなかった。そんな父が泣いていた。告別式が一通り終わってから、中へ入ったが、その時にはもういつもの父だった。煙草を吸いながら親戚と話していた。泣いている父の姿を見なくて良かったような気がした。

■ 亡くなった祖父の顔を最期に見ておけと父に言われて棺桶の前に立った。祖父は目をつぶっていた。そうではあっても寝ているわけではない。その目は二度と開かない。死に化粧をしているせいで頬が少し赤い。化粧をしている祖父は、頬もこけていて僕が知っている祖父とは別人だった。悲しかった。

■ 僕もいつか死ぬ。どうやって死ぬかは分からない。いつ死ぬのかも分からない。それでも必ずどこかで死ぬ。子供の頃、その抗いようのない「死」についてなぜだか毎日かんがえていた時期があったが、怖くて布団の中で泣いていた。いつの間にかそんなことも忘れて日々をヘラヘラ過ごしていた。今、「死」が目の前にあった。正直怖くて泣いた。

■ 火葬を終えて、その足で実家の祖先の墓がある寺へ向かう。そこでもう一度お経を読んでもらう。それで告別式からの一連の流れが終了する。いつもの生活ではまったく意識しない浄土真宗。そのお経を聞き、焼香をする。宗教と無関係に生きているのに、こういう時だけ手を合わせて拝むことになんだか後ろめたさを感じる。それでも何かに手を合わさずにはいられない心持になる。祖父のご冥福を心から祈る。何かに祈る。

■ その夜は集会所で、近所の人達が作ってくれた料理をご馳走になる。近所の人達が一丸になってくれている。朝、羽田空港で腹ごしらえにサンドイッチを食べただけだったのでずいぶんお腹が空いていたから、沢山食べた。美味しかった。

■ 集会所から実家まで父と歩いて帰った。その道はやけに暗かった。こんなに暗い夜を経験したことはなかった。外灯がほとんどなく、家もそれほど多くないので光がない。すると世界は闇に包まれる。以前車で旅をした時には感じなかった。ただ事じゃない暗さだ。乾燥した冬の空に、数え切れないほどの星が張り付いていたが、それさえもきれいということから遠く離れたものに感じた。「闇」がそこにある。かろうじてある外灯に救われているが、外灯がなかったらどうなってしまうのか。ぞっとする。僕はまだ本当の「夜」を知らない。実家の明かりが見えてほっとした。そうやって長い一日が終わった。

■ 12月とはいえ、九州は暖かかった。父は初七日まで仕事を休んで実家にいるというので、昨日先に母と帰ることになった。父が実家から車を借りて佐賀駅まで送ってくれた。佐賀駅から特急で母と博多へ向かう。その道すがら、母が話してくれたのだが、死に目に会えなかった父は、実家についた夜、祖父の眠る棺桶がおいてある部屋で寝たという。もともと寂しくならないようにと通夜までの間、身内が交代交代で傍にいるという慣習もあるからそれ自体は別にめずらしいことではないのだろうけれども、父は「親父が寂しがるだろうから」と率先して傍にいることを選んだという。走る特急の窓には佐賀の町が写っていた。田畑や山々が通り過ぎていく。それはやっぱりきれいだった。こうして駆け足で怒涛のような日々が過ぎた。なんだかとても疲れた。