東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

祖父の訃報

■ 父方の祖父の訃報が届いたのは昨日の朝だった。兄がメールをしてくれていたのはさらに前日の夜遅くだったことがメールの受信時間で分かったものの、電波の状況がよくなかったらしく、朝になってから自分で問い合わせをしたときに、そのメールを受け取った。一日遅れの訃報だった。

■ 高校生以来、佐賀にある実家に行かなくなっていたのは、大学が北海道にあってとにかく距離的に遠かったからだし、卒業後、関東に戻ったもののそのまま就職をしてしまったから、ふと気付けば10年以上の年月が親戚とは会わないで過ぎていた。父方が佐賀で、母方が鹿児島という九州にゆかりのある血筋だったので小学生の頃は毎年夏休みの恒例行事で九州に行っていた。母親の飛行機嫌いから交通手段はもっぱら新幹線で、いくら「ひかり」とは言ってもはしゃぐことが好きだったガキの僕には、新幹線の「便利さ」は理解できず、名古屋に着くあたりには、もう十分すぎるほど新幹線を堪能してしまっていて、残りの移動に費やされる時間は、ただただ我慢するだけのものでしかなかった。

■ 北海道の大学を選んだのもどうせ埼玉から離れるのならば、九州ではない場所へ行きたいという気持ちが強かったからで、畜産の大学に行きたいなら熊本大学にすればいいだろという父の提案を高校3年生の僕は即座に却下していた。

■ そんな九州へ久しぶりに行ったのは3年前だ。一度目の就職でいろいろ駄目になって、会社を逃げ出した僕は、車で旅をした。家族にひどい迷惑をかけながら、僕はそれでも会社を逃げ出して、自分勝手に車を走らせた。意味もなく目的地を鹿児島の桜島にした。2週間かけて本州の端まで行った。その旅は、周りの人たちからすると自分勝手なものにしか写らないだろうけれども、僕には生涯忘れられないものだった。その時、九州の親戚の家に立ち寄った。宮崎、鹿児島、佐賀に住んでいる父方も母方もどっちの家にも。いきなり親に頼んで連絡先を教えてもらい、突然泊めてくれと連絡した。考えてみたら、失礼な話だ。10年以上音沙汰がなかった甥っ子がいきなりやってくるのだ。しかも仕事を辞めて。それでもどの家でも温かく迎えてくれた。久しぶりにのんびりしていけばいいと言ってくれた。うれしかった。父方の祖父も僕を温かく迎えてくれた。

■ 祖父は生粋の九州人で方言がきつく、小学生だった僕にはその大半の言葉は理解が出来なかった。食事の時に、美味しい魚やお肉がたくさん出てきて、うかれる僕に祖父はいつも、沢山食べろの意で「たべんばたべんば」と言っており、そのリズムのある口調がなんとも面白くてよく兄貴と口真似をしていた。10年ぶりにあった祖父は以前と変わらず元気だったように見えた。記憶の中の印象と何も変わっていないようだった。ただ身長は僕が追い越していた。僕の方が変わっていたのだ。相変わらず祖父の話すことばは方言がきつく分かりにくいところもあったのだけれども、以前に聞いたあの聞き心地の良かったリズムのままだった。その心地よさはつまり祖父の人柄なんだろう。

■ 佐賀の実家に泊めてもらった時に、祖父と2人で車に乗ってドライブへ行った。僕の旅の移動手段だった三菱のミニカトッポは学生時代からの愛車で、最後まで「帯広ナンバー」だった。九州の地を「帯広」ナンバーの軽自動車が走っているのはなんだか滑稽だった。初めて意識して走った佐賀の実家の周辺は、とてものどかで、その時、季節は2月だったけれども九州はすっかり春の心地だった。祖父がよく行くという食堂へ連れて行ってくれるというのでドライブをすることになったが、よく行くという割には曖昧な記憶しかなかった祖父のナビに手こずっていろいろ迷った挙句ようやくたどり着いたのは、今流行りのどこにでもある複合型温泉施設で、目的地の食堂とはそこに付属している食堂だった。風呂に入る人でない限り食堂が使えないなんて規則は当然ないわけで、祖父は入り口から湯殿には目もくれずまっすぐに食堂へ向かったが、僕には少しばかり抵抗がないこともなかった。祖父は何にも気にしない風で以前と変わらず「たべんば」と言って沢山ご馳走してくれた。風呂上りの客に混じって食べたありきたりの定食は、それでも美味しかった。

■ 祖父とはそれきりで、ここ一年体調を崩していたことだけが情報として耳に入っているといった程度だった。小学生の頃に会った祖父と3年前に見た祖父の姿だけが断片的につながって存在している僕の記憶の端っこに、死という事実がいきなり糊付けされてしまった。それはやはりあまりにも突然だった。心地よいリズム感のある祖父の口調を僕は忘れない。