東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『佐賀へ』

10月8日。早く起きて荷物を持って電車へ。羽田空港へ。父の遺骨を納骨しに佐賀へ。3回忌のタイミングでようやく行くことが出来る。といっても僕一人だったら、このタイミングで行けなかったと思う。仕事がバタバタしすぎて、それどころではなかった。兄が音頭をとって諸々調整してくれたおかげだ。


やや回り道のように感じつつ、渋谷まで地下鉄に乗り、そこからJRで浜松町へ。ある程度、余裕を持って出てきたつもりだったが、兄から「混んでるから早めに移動した方がいい」とLINEが来る。13時半発なのに10時過ぎには着いているとは。恐ろしく早い。

浜松町からモノレールへ。結構混んでいる。3連休初日だし当たり前か。そして海外からの方もちらほら見る。きっと海外に行く人も多いのだろう。兄には悪いがそこまで急ぐ必要はないので各駅停車に乗り羽田へ。天王洲アイル駅までの海側の風景が大好きなので、そっち側に座り、外を眺める。

羽田に着いてから、靴磨きの店へ。革靴がボロボロだったので少しでも体裁を整える。お店を出るとき「いってらしゃいませ」と言われる。場所が場所だけに、挨拶もそういう風になるのだな。それから搭乗手続きを済ませて手荷物検査場へ。手荷物検査がかなりざっくりとなっていた。どう説明すればいいのかわからないが、以前はパソコンやペットボトルなどを鞄から取り出し、個別にケースにいれなければならなかったが、すべてまとめて鞄の中にいれたままで問題なかった。兄が言っていたよりはスムーズに通り、フライト1時間ほど前に着く(それでも十分早いと思うが)。兄がすでに待合スペースにいた。喪服を着ていた。諸々の納骨などは明日と聞いていたが、兄は面倒なので着替えは下着しか持ってこなかったらしい。遺骨も手荷物として預けた様子。預けられたのか。

「6キロだったよ」

と、兄。木の箱や納骨している壺の重さがほとんどだろうが。火葬した際、父の骨はかなり量が多かったようで、葬儀場の方が壺に骨をいれるのに苦労していた。いずれにしてもそれなりの重さである。それを実家から持ってきてもらうのも兄にすべてをお願いしてしまっていた。そういうことも感謝だ。

飛行機に乗る。どの座席でも個別にモニターが付いており、映画なども見れた。混雑していて、僕は通路の真ん中側で窓の外も眺められなかったので、映画を観ることに。「トップガンマーヴェリック」が観れたので、それを観る。フライトアテンダントさんの案内ごとに映像が止まる。まぁ、仕方がないのだけれども。フライト時間、1時間半。映画は2時間越え。クライマックスの良いところで映画は強制終了。帰りの便も同じように個別モニターがある飛行機であることを祈りつつ、降りる。

佐賀空港。見覚えがあるような気がしたけれど、初めて降りた。父の遺骨はたいそうな包装をされてベルトコンベアで流れてきた。飛行機会社の方で包装してくれたようだ。周りの人たちはきっと何が出てくるのだろうと驚いているだろう。かつて、実家の祖父の葬式の時は、福岡空港まで飛行機で向かい、そこから電車で佐賀へ移動し、最寄駅からタクシーで移動した。佐賀空港から実家は、車で一時間くらいかかる。実家の義兄にあたる叔父さんが迎えに来てくれた。父よりも寡黙な叔父さん。昔から変わらない。空港を降りてから駐車場を歩く。第四まである駐車場は、第三までは満車だった。地方の飛行場はだいたいが駐車場は無料で、連休ともなれば旅行客が車で空港を訪れて空へ飛び立つ。陽射しが強く、空がとても広く感じた。

空港から実家まではどこまでも長閑で、もうじき米が収穫できそうな色づきだった。水田が多い。そして他には蓮根畑もある。途中、お寺へ供える花や、和菓子を買いに寄り道をしつつ、実家へ。僕は多分、20年ぶりくらいだ。それでもなんとなく覚えているのは、以前に来た時、車で行ったからだろう。最初の就職で結構ダメなしくじり方をした後、車で一人旅をするという絵に描いたような逃避をした時、佐賀の実家にも寄っていた。そんな僕に、何も聞かず、寝床と食事を用意してくれた。

荷物を下ろし、父の遺骨を実家の仏壇へ。祖父や祖母の位牌がある仏壇。そこに父が並ぶこと。ようやく、という気持ちと、それとは別の不思議な気持ち。

兄を誘って外へ散歩しに出かける。陽が暮れかけている。小学生のころ、夏休みに遊びに来ていた。その時は、廃車になったバスが置いてあった公園があった記憶があるが、覚えている場所に公園は見当たらない。有明海まで歩く。汐が引いて有明海特有の泥が顔を出しており、鼻に着く匂いが立ち上がる。記憶ではあたり一面、海だった気がしたけれど、向こうの方に別の町が見える。子どもの頃の自分たちの視界がどれほど狭い世界だったか、ということだろう。

ゆっくりと陽が暮れていく。あたりはほとんど人がいない。時々車が通り過ぎる。見慣れぬ二人の図体のでかい男が歩いているのは違和感だろう。じろじろと見られている気がした。実家の近くに猫がいる。後で聞いた話だとお隣さんが20匹ほど飼っているらしいが、どの猫も自由に家や外を出入りしているようで、「うちの敷地に用を足していくので困っとるんよ」と叔母さんが漏らしていた。

夜は出前のお寿司をとってくれた。ちらし寿司。やはり少し関東のそれとは異なる。そして実家で取れた蓮根などの根菜類の天ぷら。僕らはいつまでも子供のイメージなのか、「どんどん食べてね」と大盛のご飯をよそってもらう。兄も僕も厄年も過ぎた年齢だというのに。

ご飯を食べてから、少しだけ外へ。20時を過ぎると、もう真っ暗で、人影もないし、街灯も限られた場所に点在しているだけ。真っ暗かといえば、そうではない。月が出ていてむしろ明るいとさえ感じられる。ただ、東京の夜とは比べ物にならないほど、黒が深く、昏い、怖さを感じる。子どもの頃はそれがとてつもなく怖かったし、今でもこの怖さはただごとではない。そんなことは無いと思いつつ、何か、見たこともない存在が暗闇の奥にいるような気さえする。その暗さが、人には必要なんだと思う。それが東京では感じられない。

リビングに戻ると、叔父が静かに世界卓球を観ていた。日本対中国がやっていた。善戦していた様子だけれども、結果、日本は敗北。中国の選手は終始安定した強さを見せていた。23時過ぎ、寝床へ。客室は、仏壇のある和室。以前、祖父が亡くなって、通夜の前夜。亡骸が戻ってきたその部屋で、一晩、そのご遺体の番をするというのが宗教的な習わしらしく、父はその役を買って出て、祖父と共に一夜を過ごしたという。僕は布団に入ると、あっという間に眠ってしまった。疲れもあったと思う。夢さえも見ずに、深く深く眠った。