東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『初盆と雨が強いその日』

朝。天気は引き続き、悪い。そして肌寒い。掃除機をかけたり床の水拭きなどをする。洗濯はやめておく。雨が降っている。

東池袋駅から有楽町線に乗る。さすがに人は少ないか。朝だからかもしれない。新富町駅から日比谷線築地駅へ。この前発見したが、一度、改札は出るもののこの2駅、歩いて移動ができる。そこから実家へ向かう。

父の初盆ということで母がちゃんとしたいというので、兄が諸々動いてくれた。結果、お坊さんをお呼びしてお経をあげてもらうとかまではしないまでも、せめて家族は集まろうと。とはいえ、コロナもあるので孫たちは呼ばず。実家の最寄り駅から歩いて家へ向かう。雨は引き続き、強い。

信号待ちをしているところに、背格好が兄とそっくりの後ろ姿が。ああ、兄かと声をかける。マスク姿。顔を見ても兄に見える。が、改めてじっくり見ると兄ではない。人違いだった。慌ててお詫びを言って去る。びっくりした。似すぎだ。ここ10年ほどはそれほど凝視したことはなかったけれど、それでも兄を見間違えるとは。しかし似ていた。背格好も似ていたし、マスクをしているとはいえ、顔を見ても少しわからなかった。あと、以前から言っているけれど、骨格が似ている人は服の趣味も絶対似てくる。僕が勝手に提唱している骨格服装一致の理論。

それから、家に向かう途中にあった和菓子屋。一度も寄ったことはなかったけれど、そこへ。最中を購入。母と兄と僕と、それから父と家族四人分。「雨、やみませんね」と店員さんに言われる。そうですね、と言ってお店を出る。

家に帰り、仏前に和菓子と父が好きなアイスコーヒーをお供え。しばらくしてから兄も来る。僕の服装が全身真っ黒だったので、呼んでないお坊さんがきたのかと思ったと言ってきた。兄の服装は僕が見間違えた人とは少し違ったけれど、それでもなんとなく似ていた。母は「初盆にお坊さんも呼ばず、バチが当たるかもね」と何度も僕らに言う。近況を話したりする。とはいえ、それほど何か盛り上がるとかではない。うちの家は、わりとそんな感じだ。母は引き続き、痩せている。今日は、盆だし、あまり小言は母には言わないと決めていたものの、いざ、いろいろ話をするとついヒートアップして、「がんばらないと」みたいなことをいろいろ言ってしまう。母も一生懸命自分なりに頑張っているのもわかるが、しかし、父が亡くなり、母が倒れてかれこれ11か月。まだまだ家の周りを少し歩くだけで精いっぱいというのは、全然快復していない。いろいろ母に小言を言っていると、うっすら母が面倒そうに感じているのもわかった。「そろそろ帰る?」みたいに言ってきたりもする。しっかりしてほしいとか言うつもりはないが、せめて、元気になって前向きになってほしい、が、なかなか。帰り際、なぜか変にテンションが高くなった母は、僕と兄の腕をそれぞれ、ペチッと叩いた。よくわからない。

玄関の外にでて「少し見送ろっと」と言う。僕と兄が駅へ向かって歩いていると、少しの間見送ってくれた。 

エッセイ本「旅は道づれガンダーラ」を読み終わる。松山善三さんの言葉も素晴らしいけれど、高峰秀子さんの言葉が、なんだか、隣にいる市井の方の言葉のようで、親しみやすい。その中に、八月十五日に絡めた言葉があった。

昭和二十年八月十五日の敗戦後、ほとんどの日本人は虚脱状態の中にいた。長い戦争に疲れ果てた上にどっちを向いても焼野原、着るもの、食べるもの、住む家もない、ないないづくしの、一億総乞食だった。ものもなければ「嫉妬」という感情もなくなっていた。飢えて貧しい庶民にとって、まず考えなければならないことは「生きる」てだてだった。欲も得もない、とはいえないけれど、少なくとも嫉妬をする対象もヒマもなかった。

私は人間の感情の中で、最も醜いのは「嫉妬」だと思っている。

(中略)

「昔はよかったなァ」というのはジイ、バアの口ぐせらしくてわ私はあんまり言いたくはないけれど、敗戦後の庶民は、ボロは着てはいても、その心も姿も現在よりは純粋で美しかった。

 

どなたかもTwitterでおっしゃっていたが、八月十五日。いつの間にか終戦記念日とされているが、あれは終戦ではなく、敗戦だとおっしゃっている戦争体験者の方の言葉もあった。高峰秀子さんもここで、敗戦と文字にしている。

先日、ネット上で、自分の考えを述べていわゆる炎上した方がいた。どのような考えも個人の意見であるならばそれはそれだけれど、いつからか、「排除」の考え方が人の中に当然のように出てきてしまっている気がする。受け入れられないものを否定する気持ちは僕にもある。だけれど、それで「排除」するという選択は、誰にも許されるものではない。

夜、都内に戻り、家族で夕食。ラーメンを食べるが、大盛を頼みすぎて食べ過ぎた。