東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『1年が過ぎて』

朝、目が覚めてもなかなか起きだせず、はっと気づいた時には朝9時を過ぎていた。寝坊。起きてリビングへ行くが、母は特に何も言ってこず。と、兄が出てきて、開口一番「あれ?いたのか」と言ってくる。兄も少し早めに来ていたが、ずっと1階にいたので、2階で僕が寝ていたことに気づかなかった様子。

兄はちゃんと喪服を着ていた。しまった。何も用意してきてなかった。控えめでもないTシャツしかなかったので、どうしようかと思案しつつ、実家の押し入れに以前置いて行った上着があることを思い出し、それでごまかす。それから近くに住む叔母も来てくれる。母は昨夜とは打って変わり、普通だったので安心した。

少ししてからお坊さんが来てくれて、父の位牌のある仏壇でお経をあげてもらう。お経を聞きながら、僕はあまり集中もできずなんだかいろいろなことが巡る。父のことはもちろんだけど、母のことや、関係ない仕事のことも。なんだかいろいろ。それがタイミングなのかわからないが、灯をともした蠟燭がちょうどなくなるタイミングでお経は終わった。

お経が終わり、お坊さんが少し僕たちに説法を説いてくれた。法事は仏様のためにあげると考えがちだが、実は自分と向き合うためのもの。仏様はそういう風に、法事ごとに変わりなく手を合わせてくれる、それだけでうれしく、それ以上のことは何も求めていない。それぞれに故人のことを想い手を合わせればいいという。

それから母と叔母と兄と食事をしつつ、話をする。もっぱら、いかにして母を元気にさせるかという話題に。退院後、母の調子は横ばいで決して回復しているとはいえない。ただ、病気が治らないというわけではなく、気持ちの問題だと思う。コロナのことで外に出たがらないこともあるが、モチベーションを上げるように少しずつ前へ進むしかないのだけれども。

特に意識したわけではないのだけれど、やはり父の話にもなる。父が倒れたのはほぼ1年前。病院へ運ばれた翌日、叔母と共に面会を待っていた母は病院近くの喫茶店にいたらしい。叔母からすると母は取り乱すこともなく冷静でいて、「父はもうだめかもしれない」と喫茶店でもらしたという。叔母にはそれが印象的だったのだという。父はその2日後、これ以上の治療は難しいということで、延命のためにつけていた装置を外した。

もう一つ、別の話も叔母がしてくれた。父と母が今、暮らす場所へ引っ越した時の話だ。僕がまだ1歳ころの日曜だったという。一つ上の兄とまだ歩けないほど幼い僕を背負う母から手助けをしてほしいと日曜に引っ越しに駆り出されたのだという。当時は面倒くさいと思ったと笑いながら叔母は話した。引っ越し作業を終えた時、父が業者と揉めていたのだという。はっきりは覚えてないが、何かしら業者の不手際で引っ越し作業が遅延したらしく、「引っ越し作業が遅くなったのだから料金をまけろ」みたいなことを父が言ったらしい。そういう父の姿を見たことがなかった叔母は、やけに印象に残ったと語ってくれた。僕もそんな父はあまり覚えがない。父にもいろいろな面があるが、父は自分のことを僕らに言うことはあまりなかった。放任主義といえばそうかもしれないが、かといって無責任に投げ出していたわけではなく、いろいろなことを自分なりに調べて考えてくれていた。

叔母が帰る時、母は妙に甘えて寂しそうだった。で、それからしばらくして、夕方に僕と兄も家を出た。翌日も仕事があり、僕も泊まることはできなかった。家の前で見送ってくれた母に曲がり角の手前で手を振った。すでに、僕にも兄にもここは実家ではあるが、自分の家ではなく、訪ねる場所になっている。が、もう少し、母ときちんと向き合えるようにと思う。

日が暮れても少し暑かった。電車に揺られてどっと疲れがでたもののそこまで眠くはなかった。池袋の近くに着くと、傘をさしている人がいた。雨がパラパラと降っていた。やらねばなぬメールがたまっていたので少しその作業。雨が降っても涼しさはなく、少し蒸し暑い。

夜、日記を書きながら音楽を聴く。たまたま流れてきた『亡き王女のためのパヴァーヌ』が印象的で繰り返し聴く。

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