東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『そしてまた東京へ』

朝、兄に起こされて目を覚ます。7時半。もう兄も叔父さんも伯母さんも起きている。みんな早い。とはいえ、僕も普段に比べると早い時間に、ぐっすり眠ったので、寝起きはいつもよりもすっきりしている。

空は昨日と違って曇り空。肌寒い。

朝ごはんもたっぷりある。玉ねぎのスライスの酢漬けというものをいただく。美味しかった。

喪服に着替えて、車に乗る。なんとなく重たいような鈍い色の空。父は元々は別の姓だったが、10代の時、諸々の事情で松瀬家に養子に出された。それで、実家から車で1時間ほど離れた松瀬の家で暮らすことになった。有明海に面した叔父の家は開けた地域で抜けるような拡がりがあったが、松瀬の実家は昔ながらの平屋で、山間にあり、子供心に怖い印象があった。そこに松瀬の方の祖母が一人で暮らしており、従兄たちがいないそこは、夏休みに遊びに行ってもすぐに退屈して、僕や兄は何ともぼんやりして、早く有明海の方に行きたいと失礼なことを思っていたりした。おそらく、養子に出された父も似たようなものだったのだろう。「本当に嫌だった、何で俺なんだっていっつもいっとった」と、叔母さんが昔の話を語ってくれた。

有明から松瀬の家へ。車で行くその道は、かつて父が辿った道でもある。父はどういう気持ちでその風景を眺めていたのか。うっすらとした記憶にある山間。ああ、このあたりがそうだなと思ったら、そこを左手に曲がり、細い道を登っていく。すると、松瀬の代々の人たちがお世話になっているお寺がある。父が亡くなった後、住職さんと何度か電話で相談をしていた。納骨に至る段取りは、兄が電話でしてくれていた。

お寺には、叔父の娘、つまり僕の従姉にあたる方と、誰もいなくなった実家を引き取っていただいた近所に住む方がいらしてくれていた。

納骨に際して、父の三回忌と、祖母の17回忌と、そして聞いたことは無いのだけど、一緒に納められているどなたかの20何回忌も合同で行います、と説明を受ける。いまいちピンとこないものの、流れるままに「わかりました」と返事をする。まずは法事のお経をあげていただき、それが終わったら納骨へ。仏壇のある納骨堂でお経をあげてもらう。それで、ようやく、やっと、父も落ち着くのだなと思うと、なんだか少し泣けてきた。父が死んで3年かかってしまった。コロナということもあるし、出来る事なら母も一緒に連れて来たかったから、母が元気になってからと思った。母はまだまだ調子が悪く、今回一緒に行くことが出来なかった。さすがにずっと納骨しないのも、ということで、三回忌のこのタイミングで、兄と僕の二人で行くことになった。急に、あっという間にいってしまったから、こちらも、すぐに対応できなかったのだ、申し訳ない。

外へ出る。改めてお寺から外を眺めると、見晴らしが良い。叔母が「母がこの風景が好きだったよ」と教えてくれた。それがどうなるかわからなかったけれど、スマホでその風景を撮っておく。面会の際、みせることができればいいのだけれども。

それから、松瀬の実家へ少し寄らせてもらう。といっても今は別の方の持ち家。入れるわけではない。だいぶ、年季の入った家だったが、その外側は活かしたまま、中だけリフォームしたのだという。外観だけ観に連れて行ってもらった。古い蔵のようなものは取り壊されていたが、家はそのままの形で残っていた。家の前に小さな川が流れており、そこで沢蟹をとった記憶がある。家の奥はすぐに山へとつながっていて、みかん畑があった。祖母はだいぶ高齢になってからもそこで畑作業をしていたと思う。この先、父が眠るお寺に行くことはあるだろうが、この実家だった家に来ることはそうそうないだろう。

その実家を引き取ってくれた方からたくさんのみかんをいただく。車で有明海の方へ戻るころには雨が強くなってきた。せっかくだからということで、観光地としても有名な祐徳稲荷神社へ少し寄ってくれた。想像よりもとても大きい社。狛犬がかなり狐っぽく、それだけ切り取ると西洋の館のオブジェのようでさえある。

一度、実家へ戻る。叔父や叔母から聞きながら、兄が家系図を書いていた。法事の際、20数回忌と言われたのは、父の母の兄妹にあたる方だったらしい。そして今更知ったのだが、有明の実家に嫁いだ祖母が松瀬の家の者だったらしい。松瀬の家系に跡取りが生まれなかったため、選ばれた手段が、祖母が生んだ息子を、松瀬の家に養子に出すという選択肢だった。父は男3人、女1人の四人兄弟だった。長女はもちろん、長男も養子にはできない。そこで二男であった父に白羽の矢が立った。高校時代を養子先で過ごした父は、関東の大学へ進学する。「おそらく養子先を離れたかったんだと思う」と叔母が言う。ただ、その松瀬の家は、ある程度の資金があり、だからこそ大学進学が出来たのだとも、叔父が言う。叔父は長男として、佐賀の農家を継いでいる。父が養子に行かず、有明海近くで高校時代を過ごしていたら、関東の大学へ進学する、という選択肢はなかったかもしれない。そうなると兄や僕は生まれなかった。もちろん、それはたらればの話で、そんなことを、すでに存在している僕らが話すことに意味があるのかはわからないが、それでも、少なからぬ、父のそういった人生の出来事の、偶然の道程のうちに、埼玉で僕らが育つことになったんだということが不思議に感じる。

荷物をまとめて、空港へ送ってもらう。雨はますます本格的に降りだしてきて、とても寒くなった。
「もう冬みたいだな」と叔父さんたちも珍しそうに言う。佐賀空港へ向かう道のりは、残念ながらずっと雨で昨日に比べても日暮れも早いように感じた。

「次は七回忌に、元気になった母親と」

叔父や叔母と、兄と僕で約束をした。娘たちも連れて。3年後。できるならばそういう風に。

帰りの飛行機は行きと同じ型で、3連休の中日なので、前日ほど混雑はなく、窓際の席をとれたものの、夜で真っ暗なので何も見えないので、「トップガンマーヴェリック」の続きを観る。そうこうしているとあっという間に羽田へ。後ろの席に座る家族連れのお子さんが「あ、東京」と窓の外の夜景を見て言う。東京なのだな、そうだ、このキラキラが東京なんだろうな、と思う。工場やビルの灯りが本当にキラキラとしている。すっかりそういった風景に慣れてしまっている僕にとって、夜はこういうもので、遅い時間に出歩いても街灯もあるし、街はいつまでたっても騒々しい。「私らは、佐賀が落ち着くけん」と叔母は言っていた。父や母はどうだったのだろう。老後の暮らしをずっと関東で過ごすつもりだったのだろうか。今となっては父にそれを聞くことは不可能だが、父にとって、やはり生まれ育った故郷の風景は、根底にあるものではなかったのだろうか。

羽田も小雨がぱらついていた。この雨は、佐賀に降っていたあの雨雲なのだろうか。