東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

鎖国と今

■ 昨日、リーディングに出てくれて、1月の芝居に誘ってくれたMくんが出ている芝居を観に横浜のSTスポットという劇場へ行く。ちょっと前にもここでやっている芝居を観た。劇場費が手頃なのだろうか。いろんな劇団が使っている。でもちょっと、横浜はなぁ。気分的に遠い。本当は今日の夜に行くつもりだった。と、いうのも昨日の夜は会社の人達と仕事後にサッカーをする約束をしていたから。で、M君にメールをしたところ土曜の夜の公演は17時からだと聞く。思いっきり仕事中だ。で、急遽サッカーを遠慮させてもらい、横浜へ向かった。ちょっと前にM君から芝居のチラシを貰っていたので、言い訳はまったくできない。習慣だけで土曜の夜は19時だと思い込んでしまっていた。

桜美林大学の学生やOBで作られている劇団。コントライブと銘打った作品で、オムニバスでいくつかのコントが演じられる。ショートコントなので物語はほとんどなく、そういったものから離れた部分で笑いを作っている。一本の物語の芯を頑丈に作りこむのではなく、細い芯にどんどんいろいろなものを肉付けしていくような演出。肉付けされていくものが「余計」なものであればあるほど完成したものが原型から遠く離れたものになり面白くなっていく。くだらないことをやっていていろんなところで笑わせてもらった。

北朝鮮とどのように関わるか。拉致被害者問題に対して不誠実な対応をとり続ける北朝鮮に対して、「圧力」や「制裁」を加えるべきだという意見が多くなっている。無論、あまりにも過激な方向へ進むと、生きている可能性がある拉致被害者の方の命に関わる恐れもあるわけで、バランスが大事だという意見も分かる。いずれにしろ次の一手が重要だ。が、どうもこの国のボスの言動が煮え切らない。

北朝鮮にしても、中国にしてもアメリカに対しても、この国の外交は一切強気に出ない。出来る限り穏便に済ませようとしている。別に穏便に済ませることが悪いというわけではない。ただ積極的に穏便な外交を取るのではなく、グズグズと流されるままに流されて結局なぁなぁにしようとした結果の「穏便」にしか見えない。「さわらぬ神に祟りなし」ばかりじゃあよろしくない。

週刊ポスト誌に連載されている井沢元彦氏の「逆説の日本史」は面白い。最近は江戸時代の「鎖国」と徳川幕府について著者の見解を書いているのだが、非常に痛快な切り口だ。

徳川幕府は「鎖国令」など出していない。』

 先週(12/17号)のこの連載はこういう見出しから始まる。いきなり大胆なことを言う。著者によると「鎖国」という言葉が初めに使われたのは1802年(享和2)のことで、オランダ人エンゲルベルト・ケンペルの『日本史』という日本を紹介した本の一部の訳語として使われたとのことだという。勘違いがないように書くと、「鎖国」という状態は確かに江戸時代にあったが、江戸時代の幕府が正面切って「鎖国令」という法令を掲げたわけではなかったということなのだ。で、引用。

 『家康の頃は「キリスト教禁止体制」でありながら「自由貿易推進政策」が取られていたにも関わらず、三代将軍家光の時代に日本人の海外渡航(及び帰国)が完全に禁止され、結果的に長崎に限定した制限貿易になった体制―この非常に分かりにくい姿を総括した言葉が「鎖国」であって、それは外国人の「命名」によるということだ』

  徳川家康は貿易に関しては推進主義者だった。しかしキリスト教流入を恐れた家康はキリスト教を禁止にする法令をだし、家光の時代、外国船が渡来できる場所を制限した。そうして長い江戸時代の中でいつの間にか「制限した貿易」に過ぎなかったものが「外国との外交は一切行わない」といったものに自然と変化してしまった。江戸時代後半には、政府は頑なにその状態を維持しようとする。

■ 別に「鎖国」という状況を否定するわけではない。鎖国という全世界的に見ても稀な状態があったおかげで、日本独自の文化が華開き、また金銀などの通貨の流失を防ぐことができたという利点も結果的にはあった。問題はそこに至る過程だ。家康、家光の時代までは意志を持って貿易を制限してきたが、江戸時代の半ば以降、安定した時代になってくると、政治を掌握する政府の思考は悪い意味で停止する。荒波を起すことを極端に嫌がるようになる。だから先祖がそう決めたからという理由で、漠然と貿易を制限していく。国内やオランダなどの友好国から貿易を勧められても頑なに拒む。そうやって思考停止状態になって問題を先送りしていき、最終的にアメリカに強気に開国を要求されてから、どうしようかとうろたえる。

『つまり、この体制は当時の中央政府である幕府の主体的、総合的決断によってなされたものではない。それが最大の問題なのである。』

■ 著者は言う。「鎖国」の利害得失を検討した結果、積極的に「鎖国」をすると決める、もしくは「鎖国」をしないと決めるなら問題はない。しかし実態は「なしくずし」に「なってしまった」体制に過ぎない、と。「なしくずし」体制。どうも今の日本の状況のように思える。特に今のこの国のボスはどうかと思うほどなしくずしな感じだ。そんな首相を咎めることもない自民、公明の与党陣営。そしてそのことを言及できるほど強くない野党。

■ 井沢氏は最期にこう書く。

『「一時の状況」に過ぎないものを「前後の事情」も無視して「絶対化」すれば、待っているのは驚くべき時間と手間の浪費と犠牲の増加である。まさにそこを歴史に学ぶべきなのだ』

 それはやはり「必死」に考えるところからはじまるのだろう。