東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

オランダの光

■ 昨日、夜勤明けに恵比寿にある東京都写真美術館へいく。そこで『写真新世紀』写真展覧会がやっている。新人写真家発掘・育成の為の公募プロジェクトと銘打たれたこの企画は文字通りまだ無名の写真家の人達の作品が並ぶ。とは言っても写真についてまったく詳しくない身としては、ただただその写真にすごいなぁと感心するばかり。どれも本当に興味深い。

■ 例えばそれは街のなんでもない風景を撮った写真であったり、路上を歩く人の写真であったり、夜の街を写した写真であったり、自分の奥さんのポートレートであったりする。ただそれらを見ていると、どうしても自分が演劇でやりたいと思うことと似ていると思えてくる。

■ それらの写真は、作者が意図した、意図してないはあれ、これぞと思ったその一瞬を焼き付けたものだ。例えば人が歩いている写真。街を歩いている風景なんてどこにでも転がっている。だけどその一瞬はきっとその時だけのもので、再現などされない。二度とはないその風景の絶対化。で、これはもう不思議なんだけど、例えばその街を歩いている人の写真が、絶対化されることで歩いているというだけではない意味を持つようになる。別の意味を持つということではなく、なんというか、『歩いている』という表面的なものがものすごく奥行のある立体的なものになり、その深淵へたどり着く。意味を超える。それはきっと『不滅』になるということだと思う。一つの仕草、一つの風景、一つの表情が『不滅』のものに変わる。まぁたまたまミラン・クンデラを読んだから影響されたんだと思うんだけど。そしてこういう風に書いたわりに、これ以上どう説明していいのか、言葉がうまく出てこないんだけど。もう少し自分の中できちんと消化できるまでよく考えてみたいと思う。で、写真を撮った作者のコメントを読むとどれも、僕が演劇を考えるうえで思うことや、参考にしたいことが書いてある。通じている。写真もまた一つの『表現』なのだ。

■ その後、同じところで上映しているドキュメンタリー映画『オランダの光』を見る。フェルメタールやレンブラントら17世紀フランドル絵画の巨人たちが遺した名画の源となった「オランダの光」についてのドキュメント。オランダに降り注ぐ光は全世界のどことも似ていて異なるものであるらしい。かつての画家が残した風景画にはオランダの町の描写にその美しい光が降り注いでいることで評価されてきた。オランダという国が持つ、地平線を望むことが出来る地形、町並み、そしてデルフト湖などの豊富な湖の存在による光の反射作用、それの条件がオランダに他のどの国とも違う光を与えた。印象に残った言葉。正確ではないけれど、このようなことを言っていた。

「イタリアの画家は絵を描くとき、そこに物語の存在を意識した。しかしオランダの画家はただ風景を描いた。見つめたものをそのまま描いた。」

ただ描く。それもまた一つの手法。そして手法は思想。その目線が彼らの思想だったのだ。

■ ただオランダにはオランダの光があるということは、逆に他の国には他の国にしかない、光が降り注いでいる。それは日本の中でも違う。東京には東京の光が降り注いでいる。ビルが、アスファルトが、車が、沢山の人がいるからこその光がある。澱んで汚いと見ないフリをするのではなく、その光を、その世界を見つめる。そこから始まる。

『それは一年前の姿のようだ。
 そして一年後の姿のようだ。
 
 同じようであって
 違うもの』                  −『オランダの光』より