東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

ちょっとぶつかる

■ そういったわけで夜勤です。

スマトラ沖地震は恐ろしいと思うものの、正直なところ他人事でした。年末に兄と話したときに、なんと都合があっていたら正月休みでタイに旅行に行くつもりだったらしい。兄は僕と違って海外旅行が好きで、タイによく行っているがニュースで流れる映像で見覚えのあるところが数多くあるらしい。あと十勝毎日新聞のネットのページを見ていたらこんな記事を発見した。(http://www.tokachi.co.jp/WEBNEWS/050105.html)。そういえば『ライオンハウス』。大学生の頃によく行っていた。なんだか一気にこの地震との距離が縮まった気がした。それにしても『ライオンハウス』の姉妹店なるものが帯広市内にあったとは知らなかった。

■ どういった運命の皮肉なのか。今、シネマアートン下北沢という映画館で映画監督神代辰巳さんの特集が上映されている(http://www.cinekita.co.jp/schedule.html#kumashiro)。来週、僕がずっと観たいと思っていた中上健次原作の「赤(本当はもっと難しい漢字)い髪の女」が上映されるのだ。もちろん他の作品も観たいのだけれども、これは見逃せないよ。しかし稽古だよ、そして本番だよ。どうだい、このタイミングの悪さは。何も芝居の本番中にこんな素敵な特集がぶつかることないのに。ちくしょう。直訴してでも行きたい衝動に駆られる。

■ そして稽古の日々だ。昨日も仕事後に町田に行った。仕事の後に町田の稽古場へ向かうと、どうしても20時を過ぎてしまう。それでも行く。22時まで2時間は出来るのだ。稽古が出来なかったとしても毎日顔を向き合うことが大事だろうし。きっと演出家さんは特にそう思う気がする。よく役者さんで自分の出番がないときに「じゃあ来なくていい?」って聞いてくる。個人的にはただ見ているだけになるわけだから無理やり来いとは言えないが、演出家としては来て欲しい。そこで作られる空気感を感じることで、自分が出る場所の空気感を考えることも出来るはずだし、また違う何かを発見できるかもしれないからだ。他の場面を見ることも稽古になる。僕は人の稽古を見ているのが好きだ。稽古場で黙々と台本を読んで、他の人の稽古を見ていない人はよくいるが、なんだか違うなと思う。台本を覚えるのはどこでもできるんだから家で一人でやればいい。せっかく他者がいるんだから、稽古場でしか出来ないことをやるべきだ。

■ 今日も夜勤の前に稽古に行って来た。13時から16時まで。他のみんなは22時までやっているわけだから本当に少ししか出られない。まぁ僕は今回、ちょい役なので、いなくても他のシーンの稽古は出来るわけだけど。それでもやはり申し訳ない。とりあえず僕が出るシーンの稽古をする。実は僕はこのシーンの演出に疑問を感じている。やっていてどうもしっくりこない。僕の芝居の考え方は、ちょっと極端なことを言うと演出家至上主義だ。役者として参加するときは基本的に演出家の考える演出をうまく立体にできるようにできるように心がけている。ただそれは演出に納得しているからできることだ。

■ 好みは人それぞれ違うから例えば僕が『青』が好きだとしても、演出家がここは『赤』で行きますというなら僕は『赤』になるために徹底的に努力する。ただ『赤』だというのにそれがどうしても『赤』を作ろうと目指している演出ではないと感じたら異を唱えたくなる。今回の演出家がつける演出がどうもそんな感じを思わせる。それは参加している役者の中で僕だけが感じているものなのかも知れない。それでもやはりすっきりして芝居に向き合いたい。

■ で、稽古中にちょっと演出家と話した。結局僕が仕事に向かわなくてはならない時間になってしまい、ちょっとうやむやのままで話が終わってしまった。さっきも言ったけど好みは人それぞれだ。いくら僕が異を唱えても演出家がその演出でいくというなら僕はそれに従う。ただ、どうもすっきりしない。今回の演出家さんはよく「演劇の嘘で・・」という言葉を使う。それが気になるのだ。例えばある台詞を舞台上にいる相手の役者に向かわず客席に向かってしゃべれという。それはなぜかと聞く。例えば『リアル』を求めるとするなら客席に向かって台詞を言うことはおかしい。そこには誰もいないはずの場所に台詞を言うということは『リアル』からは遠く離れている行為だ。そういうとき、それでも客席に向かって台詞を投げかける理由を問いかけたとき「それは演劇の嘘なんで・・」と言ってくる。

■ 正直、それを言われたら納得しないわけにはいかない。というか反論ができないわけだ。こういう風に言われたら。そういった客席に向かって台詞を投げかけるといった分かりやすいもの以外にもいろいろと気になる部分があり、そこに関していろいろ聞くと「演劇の嘘なんで・・」と言われてしまう。それを言ったら、演劇は舞台という限られた場所で演じられるわけで、極論で言うと全て『嘘』なわけだ。だけど僕達は演劇という表現方法を『選んで』作品を作っている。そうなると『嘘』なりの『リアル』が必要なはずだ。というかその『リアル』を作り上げて、浮かび上がる空気感を作りたいから演劇を『選んで』いるのだ。「演劇の嘘なんで・・・」という言葉を発することは、僕にはその『リアル』を考える思考を停止してしまっているようにしか感じられない。

■ 別に役者のわがままで言っている気は無い。よく「私はこんな時にこんなこと思わないんで、この台詞は言えません」とか言う役者がいる。本当にいかがなものかと思う台本の場合、その発言が的確なときもあるが、ほとんどの場合はそんなことを言う役者の方に非がある。役者の好きなことをやるために芝居があるわけじゃない。台本の持つ世界感と演出家の意図する世界感を体現するために芝居はある、と思う。その台詞が世界観と食い違うから異を唱えるのなら話は分かるが、そうじゃない場合は論外だ。少なくとも自分の発言は個人的なわがままで言っているつもりはない。多分。

■ 台詞を客席に向かって発するなら発するなりの『リアル』が必要だ。『リアル』を必死に考えるしかない。そういったことが『演出』につながるはずだから。

■ とにかく本番まであとわずか。芝居と、演出家と本気で向き合う。向き合うしかない。神代辰巳監督の映画を見るのも我慢しているんだ。必死だよ、こっちは。