東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『その速度』

■ ものすごい寒波が訪れるという天気予報があり、憂鬱であったものの、今朝はそれほどではなかった。ネットの天気予報を見ると今日から明日にかけてずいぶん寒くなるそうだ。やはり2月だ。2月はすごい寒い。で、2月が過ぎたら春が来る。ゆっくりとだけど春が来る。

■ そんなこんなでイラクで選挙があったというニュースを知った。(http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050131k0000m030116000c.html)最近、本当にニュースを見なくなっていた。芝居があったり、忙しかったりするとすぐに世間に目がいかなくなる。芝居で、現在の世界状況のどうのこうのを訴えようとかいうことはさらさらないものの、そういったことから『無関係』に芝居を書いてしまっているといった状況は果たしてヨシであるのか。世界に『イマ』があり、そこに存在する『イマ』にこそ、演じるにふさわしい、気持ちいいものが存在している気がする。悲劇であっても喜劇であっても、不条理劇であっても、それらは『イマ』を見つめる作家の視線から生まれるものであるはず。選挙とはいえ、それに対する気持ちは人それぞれ。シーア派の人にとっての選挙とは。スンニ派の人にとっての選挙とは。クルド人自治区に住む人にとっての選挙とは。ザルカウィにとっての選挙とは。アラウィ首相にとっての選挙とは。アナン事務総長にとっての選挙とは。ブッシュにとっての選挙とは。それぞれが抱える選挙。そしてその差異から生まれるうねり。そのうねりに劇的なものは存在しているのではなかろうか。

■ 以下、週末のこと。28日(金)。友人の芝居を見に飯田橋へ。なんでも開演時間厳守で途中入場はお断りしているとのこと。そういった決め事は各劇団のポリシーなのだからまったく否定する気はないが、ならばせめて平日は19時30分開演にしてくれないかしら。社会人は仕事後に駆けつけるとして、移動時間を考えると19時はかなりギリギリだ。ポリシーをまげろとは言わないけれども、極力お客さんのことを考えていろいろ決めてほしいなぁと、いささか思いながら夜の東京を走っていた。リーディングに参加してくれた声の大きいHさんや、かつて一緒に芝居をやったAさんが出ている。元気そうでなにより。お互い忙しく、あまり会えないが、こうやって芝居の時に顔を合わせることができるのはなんともいいもんだ。

■ 29日(土)。再び何もやる気が起きない。呆然と過ごす。で、不意に金曜の芝居に出ていたHさんやAさんと一緒にやったかつての芝居の台本やビデオを見返す。自分が作・演出しただけに、自分としは面白かったりする。ただ、観た人は、演じた役者はどうだったのか。他者の視線。そんなことを考えてみたりする。しかし他には何もやる気が起きねぇ。

■ 30日(日)。横浜美術館で映画監督富永昌敬さんの特集をやっていたのでそれを観に横浜の桜木町へ行く。一度も来たことがない街だと思っていたが、かつて来たことがあった。みなとみらいやランドマークタワーがある、なんとも立派な街。港があるので、むろんその向こうは海。そういったわけで上映までの空き時間を散歩。

ランドマークタワーの遊歩道から赤レンガ倉庫の付近を歩く。海沿いなのに、あまり海の周りを歩いている気分にならないのは、目の前にベイブリッジがあったりして、外海が開けてないことと、潮の匂いがしないからだろう。こんなに海が近いのに潮の香りがせず、さらに吹く風は海沿い独特のあのべとつくような風とも違う。どこか人工的な手触りのする海。それでも赤レンガ倉庫前の広場にたどり着いたときには心地よさを覚えた。空は快晴。広場にはカップルや家族連れ。ペットと歩く老人もいる。カモメが飛んでいる。汽笛の音。波の音。静寂とは程遠い、いろんな音がそこには存在していたが、しかしこれを人は静かだと表現するのだろう。のんびりとした空気。一度しか行ったことはないものの神戸と似ている気がする。きっと山下公園外国人墓地といった場所の方がもっと神戸と似ているのかもしれないが。港町。新しい西洋の文化がたどり着いた街。和と洋が交じり合った始まりの街。モダンといってしまうと安易なのかもしれないが、そこにはいつまでも新しいような古いような、人を引き付ける魅力があるようだ。

■ で、思い出したのは28日に観た友人の芝居のワンシーン。「海は思わせぶりで嫌い。ただの水たまりのでかいやつなのに」といった台詞を女優が言っていた。この女優は、父が多額の借金をしており、母は自殺といった昼のメロドラマばりの人生を歩んでいる設定なわけだけど、確かに海は水たまりのでかいやつで、何を言うわけでもなくそこにあるものなわけで、その巨大な水たまりに何かを思うのは、どうしたってその水たまりを見る主体の意思であり、その主体がその時に考えていることが、漠と思われるわけで、当然、この台詞は海に対する文句というよりは、そう思ってしまう自分に対するなんらかの批判やら意見やらのはずだな、などと思ったりもした。

■ 富永昌敬監督特集はとても充実していた。監督のほぼ全作品を上映した後に、本人が出てきてトークショーがある。15時30分から始まって休憩を何回か挟むものの終了が20時30分。満腹だ。どれも刺激的な映画だった。物語は本当にデタラメに近いが、そういった物語以上のものがあるからこそ、画面に引き付けられる。当日配られたパンフの文章が興味深いので、長くなるけど引用。

『一本の槍が投げられる。
 「結構な勢い」で投げられた槍は、それにしてはあまりにも遅く、いや、遅いのではなく、見た目よりもはるかに長い距離を飛んでいくように延々と同じ速度で飛び続ける。フレームの速度を僅かに追い越すくらいのスピードで、ぐにゃぐにゃしながら飛び続けるその「槍」は、通り過ぎる風景の「遅さ」によって、一体どこを飛んでいるのかさえもどうでもよくなってしまう。
 (中略)
 願わくば、その「槍」の正体を探ったり、軌道を憶測することなど無いように。その「槍」は、確かに見えるものとしてそこにありながらも、突き刺さるその時までそれが「槍」であることなど分かりはしないからだ。富永昌敬監督の映画とは、その速度を身をもって体感し、血を流し、痛みを覚えることで味わうべきだ。もしそれが「盲人の杖」であったとあなたが気づいていたとしても、そこには何も意味もないし、それ以前にこの鋭利な「槍」を防ぐことなど、とても出来はしないだろう。』

 『重要なのはどこへ向かっているかではなく、どんな「速度」で進んでいるかだ』という意味の文(正確な言葉を失念)があったのは宮沢章夫さんの小説「サーチエンジン・システムクラッシュ」であるが、その言葉に似ているとも思えるこの文章はまさに富永昌敬監督の映画を言い当てていると思えた。

トークショーで司会を務めていた大寺眞輔さんという映画評論家の方が言っていた言葉も興味深い。映画を大きく2つに分けるのならば『撮影の映画』と『編集の映画』になるが、富永監督の映画はその境界線上に存在しているといえる映画だという旨のことを仰っていた。なるほど、そういった視線。で、そういわれると確かにどちらでもあり、またどちらでもないような感じだ。富永監督自身は、そういったことに割りと無自覚で、映画を作るときはいかに制作期間内で終わらせるかということと、飽きられるのが怖いから映像にいろいろ詰め込むことしか考えていませんといったことを言っており、ひたすら飽きられるのが怖いとか、つまんないと思われるのが怖くてとなんだかおびえた様に言っているのが面白かった。大寺さんがほめ言葉で「物語がいい意味ででたらめ」というと、富永さんが「でもそれじゃいけないんですよ・・」と返しており、その押し問答のような会話も面白かった。

■ 昨日の日中と夜にメールや電話で4月の芝居をするOさんといろいろ話す。端的に言うと揉めたわけだが、その一因が、俺がのんきに構えているせいでもあるのだろうし、Oさんが、自分が中心になってやりたいという正直な胸の内を言ってくれたのは、この芝居に向き合っているOさんの真摯な姿勢なのだろうとも思えた。結果的に昨日のいろいろなやりとりがいい方向に進んでくれると思いたい。内容は、こういった日記に書くものでもない気もするし、今回の日記がずいぶん長くなったので割愛。

■ それにしても飽きたか、A管理人。更新がめんどうくさいというのは、この日記以外にホームページ上に更新が見られないことから、おそらくこの日記をはてなダイアリーに移行することのことだと思うが、まぁ人の日記をどうこうするのがめんどうくさいというのは分からないでもないけど、しかし飽きたかA管理人。ふーむ。