東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『夕凪の街 桜の国』

■ 『チドリズム』の稽古は2月の1日から始まる。これは4月の公演のわりに、ちと早い。いや、稽古期間が多くあるにこしたことはないが、本来ならば2月の後半ぐらいからだろうし、当初はそういう計画だった。

■ それを2月のあたまからにしたのは、ほとんどの方が久しぶりに芝居をするとのことで、あと、顔見知りではあるけれど、芝居を一緒にやるのは初めてという具合の人間関係なので、慣れるためにちょっと早くから稽古しようという案が出たからだ。

■ そういったわけで前半はエチュードというある程度条件やテーマを課して、即興的に他者と掛け合いをするといった稽古が中心になるだろう。即興的な芝居をやることで、役や打オ本にとらわれない、その人の身体を知ることができ、お互いの特徴を少しずつ知っていくことができる。稽古を通じて身体の自己紹介をしあう期間だ。またそれぞれが考えてきた話のアイデアを持ち寄ってやってみたりもするだろう。そういった意味ではいろいろ試せる期間だ。

■ というわけで稽古場の確保に奔走している。例によって僕は稽古場関係でお世話になっているFさんに稽古場を借りるお願いをする。僕のように埼玉に住んでいるものは、こういう稽古場確保にはあまり役に立たない。芝居をするとき、役者が住んでいるところがバラバラなので、どうしてもみんなが集まりやすい東京の周辺の稽古場がいい。そしてお金の安さも重要。この条件を満たすには、地元の公共施設が一番いい。と、いうわけで中央線周辺か、小田急線周辺に住んでいる人に、その地元の公共施設を借りてもらうことが多いわけだ。

■ しかしこういった感じで公共施設を借りる人々は結構いる。人気のある(駅から近く、料金が安い)施設はあっという間に借りられてしまう。さらに最近は演劇禁止の公共施設が増えている。バタバタうるさく、近所から苦情がくるらしい。切ない話だ、が、これも身から出た錆なのかもしれない。とかく演劇関係は施設の使い方が悪い。というわけで稽古場探しはいっつも苦戦する。Fさんの知っている稽古場は駅から少々歩くものの、無料で借りられて、しかもあまり知られていない穴場なのだ。だから、ついついお願いしてしまう。リーディングの時もそこでずいぶん稽古させてもらった。Fさんには本当にお世話になっている。

■ 稽古場確保以外にも芝居の稽古以外にやらねばならぬことは多い。制作面だ。今回はそれらのめんどうなことのほとんどをOさんがやってくれている。今回の芝居の発起人である責任感から動いてくれているのだろうけれども、頭が下がる思いだ。舞台監督の手配、制作さんとの打ち合わせ、チラシの制作、なんだかいろいろやってくれている。僕はなんだかいろいろ任せっぱなしで気が引ける。しかも2月の前半はいろいろとバタバタしており、稽古にもあまりでれないときた。本当に申し訳ない。

■ とにかく2月に入れば、またいろいろとやらなくてはいけないことが増えてくるだろう。そのかわり稽古も少しずつやれるので、きっと楽しくもなってくる。

■ そういえば、1月の公演を一緒にやったMくんも芝居の準備をしている。なんでも来年の3月に公演をするとのこと。まだ先の話と思っていても1年は意外と短かったりする。今は役者集めと、劇場探しに奔走しているそうだ。僕はこれに役者として参加する予定だ。昨日、Mくんが電話をくれて、少し話した。なんだかそっちも大変そうだ。でも電話の声の感じでは、そういった大変な感じを楽しんでいるようにも感じる。そうなんだ、結局、自分の芝居の準備は面倒なことも含めて楽しいのだ。だからOさんも積極的にいろいろやってくれているのだと思う。僕もOさんにばかり任せていないで、いろいろやっていかねばいかん。それもまた楽しいことに向けての準備なのだ。

福島聡さんの「少年少女」(エンターブレイン)4巻と、こうの史代さんの漫画「夕凪の街 桜の国」(双葉社)(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575297445/250-5159566-7638626)を購入した。最近、漫画ばかり買っている。「少年少女」はやっと最終巻を購入。最終話は特にいい。で、「夕凪の街 櫻の国」がよかった。原爆というとても重いテーマを扱っているが、大袈裟な平和を訴えるというようなことはせず、一人の人間、一つの家族の物語を描いている。その視点。木村紺さんの漫画『神戸在住』で、関西大震災のことを描いているストーリーがあるが、その話とも通じる視点だ。個人の生活に介入してくる突然。それが引き起こす生活の崩壊。そこからの脱落や再生。大きな悲劇は一括りにはできない。100人がその事件に関わったら100通りの事実が存在する。あえて視線を一つにする。だからこそ響くことがある。こういう作品ができる限り多くの人の目に留まればいいなと思う。本当に思う。

■ ネットで見たこの記事(http://movies.yahoo.co.jp/m2?ty=nd&id=20050127-00000007-flix-ent)がなんだか腹立たしい。いや、別にお気に入りの映画が批判されているからとかそういったことではない。「デビルマン」は見ていない。「キャシャーン」と「ハウル」は見たが、どれも面白い部分と、そうでない部分があったと思うし、批判的な意見も理解できる。そもそも週刊文春自体は見ていないので、どういった内容かはよく分からない。ただ、僕はこういう形態の作品批判に疑問を持つ。審査員がどういう顔ぶれか知らないし、どういった顔ぶれだろうと、こういう風に集団である作品をこきおろす行動に理解できない。批判も評価も個人ですればいい。なぜこうやって徒党を組みたがるのか。ラジー章はアカデミー賞というある種の享楽的なイベントに対する皮肉を込めたものだ。まぁどちらも祭りみたいなものだが、文春のこれは何も考えていない馬鹿げた物にしか見えない。偉そうな批判をするわりに、そのネーミングセンスたるやパクリの上にださい。こういったところに名を連ねてしまう批評家の方こそいかがなもんかと思う。こういった類の安易なイベントを大手週刊誌がヘラヘラとやっている姿勢にも腹が立つし、何より理解できないのは、この記事のこの一文だ。

『ここまでズバリ辛口意見が掲載されると読者には新鮮な印象を与える。』

なにが新鮮な印象なのかまったく理解できない。こういった論理性のない、感想じみた低レベルな記事が堂々とネットにまかりでているのも安易にしか見えない。安易な企画を安易な記事で騒ぎ立てる。その犠牲になるのが、誰かが必死で作った作品だとしたら、僕も及ばずながら創作をする身として無念でならない。きっと俺がこうやって騒ぐことすら、意外と向こうの意図したところなのかもしれない。こんなくだらないものは傍観して見過ごしてやればいいのか。本当に腹立たしい。