東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『週末明けは文章が長くなる』

北朝鮮とのサッカーに関して、こういった意見(http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050208#p1)をブログで読み、なるほどなと感じる。そういえばやけにサッカーの報道が多い。でもいつものサッカー報道とはなんとなく違う。スポーツよりも外交問題のような取り上げ方だ。いつだって物事には政治がはらむ。いや、違うな。マスコミが扇動するのだ。そしてさらに奇妙なのはマスコミ自身が、何かに煽られているかのように報道しているということだ。見えないナニカがマスコミの背中を押している。意識すべきは、戦うべきはその実体のない見えないナニカなのではないのか。とにかく政治を払拭していこうと提案するこの文章に僕は共感する。

■ 6日(日)。日中、4月の芝居で使わせてもらう新宿の劇場に行く。劇場内での禁止事項などを知るため。例えば舞台上で水を使うとか、火を使うということを敬遠する劇場はよくあるわけだ。そういったことを事前に理解しておかないと、後で劇場の管理者と揉めることもある。劇場で禁止事項が記載された資料を頂く。火を使用する場合、管轄である渋谷警察署に許可を貰わなくてはいけないらしい。ナルホド。そういうことも考えなくてはいけないのだ。

■ その後、新宿のシアターブラッツという劇場へ。リーディングに出てくれたFさんが出演しているOi-SCALEという劇団の芝居を観にいく。この劇団は以前、漫画家古谷実さんが描いた「ヒミズ」を芝居として上演したことがある劇団で、以前から気になっていたのだけれど、なかなか観にいけなかった劇団だ。初見。古谷実を好きな方が書いていそうな脚本だった。劇場の奥行をうまく使った演出にナルホドなと思う。照明は舞台手前の方を薄暗くしか照らさない。その暗さが深夜の雰囲気を醸しながら、それと同時に奥の方を見えなくする。舞台奥に役者が歩くと闇の中に消えていくような感じになる。そして物語は意味のある出来事を敢えて説明しない。それで現実感が喪失するような感覚になる。思考が歪む。面白かった。終演後、Fさんと少し話す。今回の芝居が終わると今のところ、今後の芝居の予定が無く、暇をしてしまって嫌なんですよといったことを言っていた。芝居の稽古をしながらもオーディションをいくつも受けているそうだ。タフな人だ。俺にそのタフさはない。

■ その日の夜にお茶の水へ。展覧会をやったメンバーと今後の活動について話し合う。リーダーであるMさんはいろいろな演劇系のワークショップに参加しており、そういったワークショップの内容を井上ひさしさんの戯曲「父と暮らせば」(新潮文庫)を使ってやってみようという話になった。井上ひさしさん作家以外に劇作家としても有名な方だが、実は台本を読むのは初めて。こういう場がないと井上ひさしさんの戯曲を読む機会はなかったかもしれない。

■ 確かに言葉や物語に強度は感じるものの、この戯曲に違和感というか距離感を感じたのは、この作品が原爆の話を、被爆した当事者の観点から書いているからで、そういうことに無頓着で無関係に生きてしまった自分には重過ぎる、というか身体がついていけないような気がしたからだ。そもそもこの台本は2人芝居で、50代の男性と25歳くらいの女性が登場人物であり、20代の男だけの集まりである僕らにはどっちの役もできそうもないという年齢的な制約もあるが、それ以上にもっと大きな意味でその戯曲の世界の体現が僕達では不可能だと思えた。井上ひさしさんは戦争を体験しており、その身体が、経験がこの戯曲を書かせている。戦争を経験していない僕が戦争を体験したように語る身体には、どこか嘘を感じる。かといってそういった事から目を逸らし無関係を決め込むのはおかしいと思うが、じゃあどういう距離感で向き合えばいいのかと考える。今の僕だからリアルに表現できることがあるはずだし、語るべきはそこだ。戦争経験者ではない人が戦争ときちんと対峙しているなと思えた作品はこうの史代さんの漫画「夕凪の街 桜の国」(双葉社)だ。で、それをみんなにも勧めてみた。いろいろな人に見てもらいたいと思う作品だったし、特にこのメンバーには見てもらいたい。そういえばこのメンバーに広島県出身者が2人いるのだが、彼らが興味深いことを言っていた。広島と東京(というかおそらく広島以外の県という意で)では平和とか原爆に対する姿勢が違うという。広島から上京したとき、そういったことを考えてみるという姿勢にずいぶん差を感じたという。きっとそういうことはあるのだ。ただ気付かないだけで。生まれた土地だから背負うものがあり、その土地を知ることで分かること、気付くことがある。

■ 他にも表現するということに関していろいろしゃべった。面白かったのは西洋の民俗舞踊と日本の民俗舞踊との違いについて。西洋のものは自分を束縛する地面から少しでも離れたい、神のいる天空へ届きたいという願いから生まれたもので、ある種の浮遊感を呼ぶようなものであり、その舞踊のベクトルは太陽や空に向かっているのだという。で、一方日本の祭りなどで踊られるものは大地への感謝でありベクトルは常に地面つまり下なのだという。意識が向けられるベクトルの違い。実は以前聞いた話でこれに類似した話を聞いたことがある。日本は八百万の神という信仰があり、どんなものにも神様はいるというのが古来からある考え方だ。特に自然の中に神がいるというのは漠然とであってもどんな人の中にもある。それは畏怖として心に根付く。だから自然を破壊する行為に対してはずいぶんと意識をする。一方で西洋諸国では自然に対する畏怖の感じが日本人とは異なる。それはキリスト教にせよ、イスラムにせよ、仏教にせよ神は唯一無二のものであり、人の形をして存在して自然界にはいないと考えるからだ。だから西洋諸国では自然のものに感謝するという意識は少ないらしい。せいぜい手の届かない太陽などに神に似たものを感じる程度で、森や山にはそういったものは感じない(少なくとも日本人ほどは)らしい。だから欧州諸国で酸性雨の被害ではげ山がたくさん出来ても、日本のような騒ぎ方はしない、ということだ。例えばこういった問題も、意識のベクトルがもともと日本人と違うという意識で考えてみれば分からなくもない。しかしこうなってくるとですね、世界っていうのはやはり一つではないのでして。人類皆兄弟なんて嘘ですな。ただ、『それぞれはまったく違うのだ』と理解することはできる。きっと始まりはそこからなのだろう。他者としての認識。そして理解だ。それが異文化コミュニケーションだろう。アメリカのやっていることは違う。自分達の思想の押し付けだ。自分達の思想が正しいから、それ色に世界を染めようとしているだけだ。

■ なんにせよ、話すことでいろいろと知ることが出来る。このメンバーとの会合ではいつもいろいろな話ができて、そのたびに刺激を受ける。本を読むことや映画をみることと同様に、会話をすることでまたいろいろ得ることができる。それは楽しいことだ。

■ で、今日。1月に参加した芝居に出ていた若い人たちが出演している芝居を観に横浜の桜木町へ行く。桜木町。1月末に富永昌敬さんの映画の特集を観に来た場所だ。それまではほとんど来たことがなかった街なのに1ヶ月も経っていないうちに再びやってきた。なんだか不思議な気分だ。同じく芝居に出ていたYさんと一緒に観にいく。それにしてもまだあの芝居から3週間しか経っていないのに、みんなもう別の芝居の本番を迎えているって、それは芝居に参加しすぎじゃないのか。がんばるな、若い人たち。元気な芝居だった。で、自分の学生の頃の芝居を思い出した。大学時代はこんな感じの芝居をやっていたなぁとしみじみする。勢いさえあればそれは一つの武器だ。若さは武器だ。馬鹿を恥ずかしがってやっている舞台は、見てるこっちが困るが、戸惑いがないだけでも立派だと思った。がむしゃらなひたむきさ。そんな感じだった。僕はそういうのが好きだ。

■ ごく稀に、勢いとは違うものを持っている人がいる。適当な言葉が見つからないのでとりあえずそういう人たちを『天才』と言ってみる。僕は今まで生きてきた中で『天才』だなぁと思う人に2人会った。1月の芝居に出ていた役者のHくんと大学時代の後輩で脚本を書いていたMだ。なんというんですかね。言葉もないです。その2人は『天才』としか言い様がない。そうとしか言えない。僕は彼らに何もしてあげることはできないが、彼らには出来ることなら、その『天才』を発揮できる世界にいて欲しいと思う。強く思う。

■ そんなことをふと考えてしまったのは、ある戯曲賞に自分の作品を投稿していて、それが見事に落選したからだ。正直、残念だった。賞やオーディションの類で落ちてズルズルと悔やんでいても、先に進めないということは頭では理解できるのだけれども、こういったふるいに引っかからないというのは、そこに自分に足らないものがあるからであり、その足りないものを見つける必要を感じるからだ。『天才』たちはオロオロしている僕の目の前で、わが道を突き進んでいた。いつも自分の道を進んでいた。僕に足りないものは、僕には手に入らないものなのかもしれない。そんな風に思ってしまう。それはきっと仕方が無いとしかいいようがないのかもしれない。羨ましいと思っていてもはじまらないものなのかもしれない。芸術とはそういう世界なのかもしれない。『天才』たちの世界。それでも僕がここに留まっている理由はなんなのだろうか。羨望なのだろうか。いかんね、凹んでる文章は醜い。さらに前へ行かなくては。