東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『その真面目』

■ この前の日記で『資本論』をいつか読みたいといったことを書いたけど、いわゆる小難しいというイメージがありそうな、そういうのをきちんと勉強しようと思ったのは、去年くらいからだけど、偶然こういう文章を発見()。きっとここに書かれていることはそのとおりだと思った。少なくとも僕はこの世界のことをまだ真剣に考えていない。いや、別に環境問題とかそういったことではなくて、そういうこととはもっと別のこと。

■ 多分、それはあまり考えなくても生きていけることだろうし、他にも考えなくてはいけないことはいくらでもある。今後の生活のこととか。いまだに派遣社員でフラフラしていることとか。

■ 「考えても何か意味ありますか?」と問われたのは(いや、きっとそう言った本人には深い意味などなく、すごく軽い気持ちだったと思うけれども)つい最近のことで、その人は(自称)何も考えない人だそうだ。面識がなかったのでその人がどうのこうのと言うつもりはまったくないし、そうやって生きていくことに否定的な気持ちはない。それにその方は、そういう風に自分を評価していたが、決断を迫られた状況になったときに、きちんと自分が選びたい道を選択できる『強さ』のようなものを感じたし。誰に何かを押し付ける気はなく、僕はただいろいろなことを自分が納得できるように『考えて』生きてみようと思っていた。だけどそんな矢先にそうストレートに言われて、どう答えたらいいか戸惑った自分がいた。

■ 4月にやる芝居でくだらないことをやろうと思っても、台本が書けない。どこか中途半端になる。笑いは好きだし、くだらないことも大好きだ。だけどそれをいざやろうとするとき、どうも身体にギアが入らない。それはまぁ僕にくだらないこと(それはきっと悲劇や感動を呼ぶといったものよりずっと難しいものなのかもしれない)をやれる、才能がないだけかもしれないけれども。

■ どこか堅物になってしまっている自分がいる気もする。以前、大学の頃に自分が書いていたような芝居には今は興味がいかない。もっと別のものに興味が変わっている。

■ そういった自分の変化に対して、この文章は解答の一つを示してくれるような気がする。僕はだからこそここで書かれている『真面目』になりたいと思える。まだまだ不真面目だし、ダラダラと勉強をしていくのだろうけれども。

■ あとはかといって硬直した台本を書かないようにしたい。『資本論』を読んだからって『資本論』に即した台本を書いても意味がない。だったら『資本論』を読めばいいわけだから。そういう『真面目』から感化されるものがあるはずで、舞台でやるからこそ伝わる作品というのがあるはずだ。そういう戯曲を書きたい。

■ 土曜も日曜も稽古。もう結構稽古の日々が続く。他の方が書いた台本をやる。土曜日に舞台監督をやっていただくHさんと顔合わせ。劇場の問題点や台本に関する打ち合わせ。舞台監督さんが打ち合わせに入ってくるとといよいよな気分になってくる。