東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

千鳥日記『君主論』

■ 雪は昨日の昼には止んだ。関東地方に3月に雪が降ったのは10年ぶりとかどうとかテレビで言っていたけれども、確かにすごく寒かった。もう雪は結構です。

■ で、夜は稽古。昨日は風邪や仕事で女子が休んだので、男子だけの稽古だった。せっかくなので僕の台本について男子の方々に聞いてみたら、台本が短すぎて落ちが分かりづらいと言われた。落ちか。僕としてはくどくないように書いたつもりだったんだけど、そういうのがあまりよろしくないらしい。うーん。

■ だけど稽古では僕が書いた台本をやってみる。どうかと思うほどくだらない内容なんだけど、これはいいんだろうか。つまり内輪的な笑いになっていないか不安。あと、男だけで稽古したのでどうも話が下品な方向へ向かってしまった気がする。つまり下ネタですな。例えば下ネタなんてものが世の中にはあって、それがいいのか悪いのかは分からないんだけれども、まぁ笑いなどのネタに使われることがありますが、あれが面白いかつまらないか(個人の好みもありますが)はもちろんそのネタの内容にも寄るとは思うんだけれども、やはり結局はそれを演じる役者さんに寄るところが多いんではなかろうか。

■ 大雑把に分けて女の人が下ネタをやる場合っていうのは、どうも観る側からすると「あちゃあ」と思うことが多い気がするんだけれども、かといって全ての女性が下ネタをやっても面白くないというわけではなくて、結局のところそのネタをやるに相応しい役者さんかどうかが問われるといいますか。内容を度外視するわけではないんだけれども、面白い内容だとしても、役者によっては見れない作品もある気がするわけです。まぁそれは下ネタに限ったことではないのかもしれないけれども。

■ 考えなくてはいけないのが、その台本の内容が、それを演じる役者さんの身体に相応しいものかどうかということではないかと。稽古を重ねることで、その本に役者が慣れることはできるかもしれないけれども、慣れるだけではない重要なこともきっとあるんだろうから。役者がいる。ならばその役者に相応しい役をやればいい。無理をする必要もない。別人になりきる必要もない。別人になりきる必要があるのならば、むしろその別人に相応しい別の役者を見つけるほうがいい気がする。『その』役者であるからこそ、と言える何かをもって舞台に立つことがいいんじゃないかと思う。

■ 話は変わるけれども、会社の同僚Aからマキャヴェリの『君主論』池田廉訳(中公クラシックス)を借りた。同僚Aはまだ10代で会社でも一番若いのに、勉強熱心な男だ。毎日、朝鮮日報に欠かさず目を通すという渋い習慣を持つ彼は日本史よりも世界史が好きなのだそうで、僕はたまに彼といろいろな話をする。話といってももっぱら彼が話すことを聞く方で、でもそれが結構面白い。実は以前クラウゼヴィッツの『戦争論』を読もうとして挫折した。僕には難解だった。情けない話なんだけど、もう少し分かり易いところから読もうと思い、同僚Aにそういうのはないかと聞いたら『君主論』を薦めてくれたといった次第だ。まだ読んではいないんだけど、ゆっくり読んでみたい。これはもう完全な趣味だ。今までこういった岩波文庫的な本を完全にないものとして目もくれず生きてきたわけだけど、読んでみようと思い始めた。せっかくだからといった軽い気分ではあるんですが。最終的な目標はとして『資本論』を読みたいと思っている。そのために読書の経験を積む。そこの達するまでにどれほどの量の本を読むべきなのか分からないけれどこれもまた修業。しかし同僚A。好きな歴史上の人物は誰なのと聞いたところ彼はこう答えた。

チャーチル

英国大統領ときた。僕はまだまだ勉強不足なので彼がどんな功績を残したのか詳しくは知らない。こういう同僚がいてくれるので、自分が知らない刺激を沢山受ける。それもまたうれしいことだ。

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)