東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『特権的肉体』

■ 今回の芝居の稽古はJR横浜線矢部駅という所にある公共施設が主な稽古場になっている。その施設の1階ロビーには待合スペースのような場所があり、そこに本棚が3つほど並んでいる。主に小学生を対象にしたと思われる絵本や歴史、科学の本などが並んでいるのだけど、その中に『俳優になるには(新版)』(ぺりかん社)という本を見つけた。著者は森秀男さん。失礼ながら森秀男さんという方を知らなかったのだけど、タイトルから興味が湧いてその本を手にとって見た。


■ 目次を読むと唐十郎さんのことが書いてある部分があった。その文章にとても考えさせられた。『特権的肉体』とは唐十郎さんが役者について語った言葉で、確かにその言葉だけは聞いたことがあったけど、具体的にどういうニュアンスで唐十郎さんがその言葉を用いたのかはまったく知らなかった。その『特権的肉体』に関して書かれている部分を引用。


 『俳優は観客の視線の前に生身のからだをさらしものにしながら、その異様な風貌や荒々しく高揚した肉体によって観客に驚きや恐怖の感情を抱かせなければならない。「特権的肉体」とは、そういう衝撃力によって観客を見返してゆく俳優の肉体のことである。』


  身体ではなく肉体という言葉を用いているところに、唐十郎さんのなんかしらの意志を感じる。肉体ってすごく質感のある言葉だ。『俳優になるには』では続けて、そういった「特権的肉体」を持つ役者と戯曲について書かれている唐十郎さんのエッセイの文章を引用している。長くなるけど、孫引き。


 『もはや偉大な戯曲が必要なのではない。戯曲のなかにある作家の劇的な精神が役者を動かすのではない。劇的な役者が戯曲を呼び起こすのだと僕がいえば、そこいらにいる劇作家然とした奴らは嫌な顔をするにちがいない。何故ならばそれは気が遠くなるような話だからだ。つまり、そんな役者はいないからだ。これは演劇の衰弱でなくてなんであろうか?』(「役者の台頭」)
 
 『役者というものはけっして、その五体を作家及び作品に奉仕しはしません。作品を自分の生きながらえる術として、常に盗んでゆく存在なのです。となれば、作家とは、その才能の楽しさを書きあげた瞬間から役者に奪われていく人ということになるかもしれません。(中略)まず戯曲があるのではなく、演出プランがあるのでもなく、パリっとした役者体があるべきなのです。そして、彼の近くに作品がなければ、彼が本をつくればいいでしょう。ソフォレクレスもまた、役者であったという如く…。』(『灰かぐらの由来』)

  
■ 当然こういった考えが出てきた時代背景を考慮にいれておくことが重要だと本の中には書かれている。唐十郎さんが状況劇場を立ち上げ、その劇団のテント公演が注目を浴びたその時代。それは1970年代だと思うけど、その当時盛んだった新劇は、西欧から流れてきた近代劇が中心だった。西欧的な演劇スタイルは戯曲がまずありきで、役者に与えられた仕事は戯曲の世界をどれだけ忠実にまた精密に表現するかであったという。唐十郎さんは『特権的肉体論』を軸にそういう場所から遠ざかろうとした。


『俳優の身体によって表現されたものだけが演劇なのであり、戯曲も演出も、俳優の身体を通過し、それによって生きられる限りでだけ演劇として存在できるのである。この肉体の復権によって、戯曲の意味や機能もおのずと変わってくる。戯曲は文学として独立したものである必要はなくなり、俳優によって演じられる時間と空間のなかではじめて生きるという意味での台本になった。そしてリアリズムから解放された劇の世界は、きわめて自由で複雑なものになったのである。』


■ たしか寺山修司さんも読み物として完成してしまっている戯曲ならば舞台で上演される必要はないというようなことを自身の著作で言っていたと思う。


■ 恥ずかしいことに唐十郎さんの芝居も寺山修司さんの芝居も観たことがない。ましてや60年代に盛んだった新劇というものがどういうものだったのかも知らない身上としては、かつて『何が』あって、そこからどのように遠ざかろうとしたのかが、よく判らない。学ぶべきことはたくさんある。


■ とにかく実際の芝居を観たわけではないのですが、この唐十郎さんの『特権的肉体論』はもっともだなぁと思った。最後に舞台上に立つのは劇作家でもなく演出家でもなく役者なのだから。ただし、だからこそ役者は選ばれた人にしか許されないものなのだとも思う。『俳優になるには』の著者である森さんの次の文章は役者にとってかなり重要だ。役者を目指す人は肝に命じておく必要があると思う。


 『しかし状況劇場をはじめ「小劇場演劇」の突出した俳優たちは、優れた自然の資質を持っていたにしても、決してあるがままの肉体を舞台にさらしていたのではない。彼らは日常の資質によりながらも、鋭い感覚を鍛え、それに支配された身体によって観客に語りかけたのである。』


   優れた身体を持っているだけでは駄目なのだ。どれほど自分の身体に意識的であれるか。生半可じゃ役者はやれない。


■ なんにせよ、唐十郎さんの演劇論を一度きちんと読むべきだなと思いました。