東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『のんびりした日/ノーライフキング』

■ 午前中はなんだか雨が降りそうな天気だったけれども、昼は晴天になった。昼食を公園でのんびり食べる。会社の前の公園は風が強かったが日差しはとても気持ちよかった。それはそうと最近、天気がおかしい。雨が続くだけなら仕方がないのかもしれないけれども、昨日はなんだか風強く、夜はけっこう冷え込んだりした。驚いたのは今日、北海道はところによって雪らしいという天気予報が流れていることで、4月なのに雪かと驚く。自分がいたころはそんなことあったけと思い出してみるがすっかり忘れてしまって思い出せない。でも、ゴールデンウィークまでスタッドレスタイヤいわゆる冬用タイヤをはずさなかった記憶があるが、それが万が一のためだったか、それともめんどくさくてはずさなかかっただけなのかもあまり定かではない。まぁなんにしてもおかしな天気だ。

■ 最近、はてなダイアリーへの更新が滞っていてA管理人のめんどくさい病が再発したかなと思っていたらBBSを読むとなんだかよく分からないがA管理人が凹んでいるようだ。事情がよく分からないだけになんにもいえないけれど、とにかく元気出せよと思っておりますよ。

■ で、昨日は久し振りにのんびりと過ごした。夜勤明けにフラフラと時間をつぶせたのは久し振りだ。稽古があると、18時には稽古場に居なきゃならないとか考えてしまうし、折込で時間がつぶれた事もあった。しばらくは何にもない日が続く。ガチガチに予定をいれていくというよりは、その日思いついたことをダラダラとやれればいい。歩いたり、映画を観たり、本を読んだり、友人と会ったり。仕事が終わってから平日の昼間に堂々とダラダラできるのは本当に楽しい。

■ で、髪をばっさり切った。以前、友人たちをして「フォーク世代か」と称されたボサボサに伸ばし続けた髪を切ったのが昨年の10月で、考えてみたらそれからまた半年以上何もせずに放置していた。おかげで再び「フォーク世代」よろしくのただ闇雲に伸びた髪達はイライラさせるほど目にかかり、ついに我慢の限界に到達した。それにこれから暖かくなるし長い髪に用はない。以前に行った美容院に行き、以前に切ってもらった美容師の方に「また伸びましたね」と言われながらばっさりと切ってもらった。すっきりした。この美容師さんがとてもいい雰囲気の方だ。飄々としている。美容院で気さくに話しかけられるのが苦手な性分なのだけれども、この方のような距離感で接してくれると僕は落ち着く。つまりつかず離れずといいますか。僕には心地いい他人以上の接し方をしてくれる。

■ すっきりしてから買い物。2005年度版の手帳を購入しようと文房具屋を回るがどこもすでに売っていない。黒い定番の手帳は売っているのだけれども、僕は以前から使っているお気に入りの手帳のケースがあり、毎年中身だけを新しいものと交換しているのだけれども中身だけで売っているタイプのものは結構早く販売しなくなってしまうみたいだ。仕方がないので自分で日付とかを記入しなければいけないタイプのものを購入。

■ それから読書。いとうせいこうさんの『ノーライフキング』(新潮文庫)読了。これは面白かった。いわゆるファミコンゲームにまつわるお話なのだけれども、子供が大人になる、つまり世界(といっていわゆる仕事をする人になるとかとは別のもっと大きなくくりの。これに関して後述)と向き合うまでの成長のお話ともとれる。考えてみればこの小説に書かれた子供たちは僕と同じ時代の子供たちで、つまりファミコンが生活の一部として存在している世代だ。ファミコンやコンピュータが当然と存在している時代に生きることと、そうではないそれ以前の子供とでは確かに何かの感覚が違うのかもしれない。それはすでにファミコンが当然と存在していた僕たちの世代にはピンとこないことなのかもしれないけれども、それをまじかに見つめることができた世代としていとうせいこうさんなんかはこういったことに興味があってこういう話を書いたのかもしれない。

■ 細部にまで趣向が凝らしてあるというべきなのか、例えばあとがきでも書かれてある様に主人公の少年が地理に弱い(興味がない)という設定もとても興味深い。つまりネットなどが当然とある時代に生きる人にとって物理的な距離感はさほど重要ではなく、それとは違うまた別の距離感こそが重要になってくるということには、まったくその通りだと納得してしまう。住所で番地の数字を一つ間違えるのと、電話番号で数字を一つ間違えるのでは意味合いがまったく違う。確かにその通りだ。第3世代といわれている携帯電話普及後の今ではまたその距離感は姿を変えて存在しているのかもしれないが。とにかく人とのコミュニケーションとしての距離感は80年代以後、まったく姿を変えているといえる。

■ この本を読んでいて映画『マトリックス」が思い出された。結局、ハリウッドでは『リローデッド』や『レヴォリューション』のようななんだかもうどうだっていいアクション映画にシフトされてしまったが、いとうせいこうさんは最後まで気を抜くことなく小説を終わらせている。小説では物語自体が完結していないように書かれているのが、それは至極当然で、なぜなら生きている限り僕たちはその世界(小説の中ではノーライフキングというゲームとして存在している世界)で生活をするわけで、ゲームの終了はその人の生命の終わりという中断でしかありえないからだ。

■ で、今日ネットを見ていたらこの本に関するとても面白いサイトを発見。ここに書かれている『ノーライフキング』の分析にも刺激を受ける。ちょっと引用。

社会学では“社会=人がコミュニケートできるものの総体”、“世界=ありとあらゆるものの総体”と定義されているという。社会=世界ではない。私流に言うと、社会は人工的に作られた任意のルールなのだ。だから社会は息苦しい。子供ならば、なおさらだろう。』

こういった状況下でゲームに夢中になる主人公の子供たちが、やがてさまざまな事態に直面する。少年たちはその事態の解決をゲームに求める。しかし結局ゲームの中に解決策は存在しない。何もかもが理論ではまったく説明できずに起こりえる現実世界。それら全てをゲームの中に出てくる悪のボスキャラのせいにするという生理の付け方で解決を見出す(これは結局のところ全て神の為すものという風に捉えるある種の宗教のようなものと似ている)のではなく、もっと違う解決策が小説の最後に描かれる。それは『世界』=ありとあらゆるものの総体と定義される場所に真摯に生きること。ただそれはかなりしんどいことだ。僕たちはそうではない『社会』に、悪い言い方をすると埋没されていくことこそが大人になることとだと教わっていく。つまり次元が低い感じの例えでいえば安定した生活をしろとか親に心配をかけるなとかそういったアレ。とくにバブル全盛の時代はそれが顕著。一生懸命勉強して、いい会社に就職することこそが全てだといった考え方が確固として存在していた。だからこそ、小説の中でも大人は子供からゲームを取り上げようとする。それはつまり『世界』に目を向けず『社会』に生きろという大人の目線の暗喩と取れる。『ノーライフキング』の子供たちはそういう大人たちに屈せず『世界』と接しようとする。そして最終的にコンピュータの存在する世界でのコミュニケーションの在り方、つまり『社会』も含めた『世界』で生きていくことのとっかかり(もしくは覚悟)を掴むところで物語は完結する。そういった意味でこの小説は子供が大人になるための成長の話しなのではなかろうか。

■ なんにせよとても刺激的な本だった。こういう感覚の芝居が書きたいなと思う。そしてこのサイトもタイトルがなにやら仰々しいけれども面白そう。ここで紹介されている宮台慎司さんの『サイファ 覚醒せよ!』(筑摩書房)も是非読んでみたいと思った。ここに書かれている『世界』と『社会』の区別の仕方がとても勉強になりそうだ。こうやって刺激を受けるものからいろいろな連鎖が生まれてくることが本当に楽しい。『ノーライフキング』に興味を持たれた方はよろしければこういったサイトを除く前に一読してみるといいかもしれません。