東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『雨の朝といろいろなこと』

■ 雨の朝だった。まだまだ肌寒い日が続く。月曜日の埼京線は相変わらず混んでいた。狭い車内で急屈していると池袋駅手前で電車が止まった。なんでも鎌倉駅付近で人身事故があり、その影響で埼京線にも遅れがでるとのこと。鎌倉で起きた事故が東京に影響を及ぼす。風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけど、なんだか不思議な感覚だ。

■ そんな矢先にJR福知山線の事故のニュースを知る。飛び込んできたニュース映像はヘリコプターからの撮影で、その光景がすごいことになりすぎていて僕にはなんだか映画の1シーンようにしか見えなかった。どういった原因でこういう事態になってしまったのかは分からない。ただただなんだかどうしよもない気分にさせられる。

■ 以前、何かで読んだことがあるのは、資本主義とはまったく顔の知らない他者を信頼しないと成り立たないシステムだということだ。喉が渇くとする。自動販売機で飲み物を買う。お金と交換に飲み物を得ることが出来る。この時、僕はお金を支払うことで飲み物を得ることができる。これがこのシステムのもっとも簡単な図式だとして、このシステムが機能するための前提としてその飲み物がちゃんと飲めるものだと(もしくはこの飲み物を作った人は飲めるものを作っていることを)僕達は信頼していなくてはならないということがある。通常、まったく意識していないが、そういう前提を受け入れないとこのシステムは機能しない。電車にしてもそうなのだ。顔も知らない運転手を僕達は受け入れて電車に乗り込む。JRならJRという社会的信頼だけを頼りに、こっちからはお金を払って電車に乗り込むだけ。やっかいなのは信頼が前提として存在してしまっている点だ。事故が起きた時に、どうしよもない気持ちになるのは前提であったはずの信頼が問題点に挙げられてしまうからだ。JRは即座に謝罪する。それはするだろうけれども、結局のところそれは根本的な解決にならない。なぜならこのシステム自体に何かを施すのではなく、前提としての信頼を損ねたことを謝罪しただけだから。しかしながら他に方法はない。現時点で、資本主義のこのシステムがどうやらこの国では有効なシステムで僕達はそれを踏まえてなければ生きていけない。生きていけないというのが言いすぎならばコーラは飲めない。漫画を買えない。焼肉を食べにいけない。

■ 交通事故にあった時の諦め方しかできない。人間は平等に無力。事故に遭った人、地震に襲われた人、もしくはこんな事件に遭った人は運が悪かったと思うしかないというどこかバツの悪い空気が漂う。誰が悪いのかという前提としての信頼に対する責任の所在だけがマスコミの話題になり、そうして表面だけをなぞってもてはやされて、時間が過ぎてしまえばいずれ過去の事件として忘れ去られていく。それが今の日本だ。おそらく現時点で資本主義は揺るがない。そういった中でどう生きるべきなのか。怖いから電車に乗らないなんていうのもまた違う。仕方がないで過ぎていいものでもない気もする。このシステムで生じる矛盾にきちんと向き合うことが必要だ。そんなことを書いているうちにまた死亡者の数が増えたとニュースは報道するが、そういったことを即座に知ることができて僕は何を得ることができるのだろう。

■ 週末のことを書きとめておく。22日(金)。仕事後、会社の人たちとボーリングをする。なぜか仕事場の一部でボーリングがブームになっている。先月もボーリングをやった。で、来月もやる予定だ。月に一度のボーリング。それはそれで楽しいが、周りがみんなうまいので困る。アベレージで140以上を出す人たちに囲まれて120もいかない僕はなんだか肩身が狭い。

■ 23日(土)。朝、Iさんたち展覧会を開催したメンバーと池袋で会う。以前も行なった井上ひさしさんの戯曲「父と暮らせば」を用いての表現の勉強会。戯曲の中のある部分を声に出して読んでみる。あるいは歩きながら読んでみる。リズムに合わせて読んでみる。2人が同じ役を同時に読んでみる。さまざまな読み方で読んでみる。いいとか悪いとかを抜きにしていろいろやってみる。芝居として成り立たせることを重点に置かないで実験的にいろいろやってみる。そうすることで表現することをもう少し違った角度から考えるヒントになりそう。それはいつも上演することを前提に作品の稽古をするのとは違う面白さがある。ただ、まぁ今のところ「何のために」という観点が抜け落ちたままこういうことを繰り返している感はあるが、それはそれでそういうことが楽しい。楽しさの向こう側に考えることが生まれればいいんだけれども。

■ 以前会ったときにこうの史代さんの『夕凪の町 桜の国』(双葉社)をメンバーに勧めていたのだけれども、読んでくれた人たちが良かったと言っていたのがうれしかった。僕はあるサイトで見つけたこの漫画の書評をコピーして持っていった。この書評を見つけたのはちょっと前だけれども、プリントアウトするために久しぶりに開いたら驚いたことにこうの史代さん本人によるこの書評の感想もアップされていた。久しぶりに開いてみてよかった。なんにせよ本当にいい漫画だと思う。

■ その後、夜に新宿でこの前の公演の精算会があった。精算会とはつまり会計の収支決算のことで、主に個々が呼んだお客さんの数に対してお金を渡すという集まりだ。今回はお客さんを呼んだ分のお金が戻ってくるので、多く呼んだ人ほどお金が返ってくる。とはいっても事前に公演をするためのお金を払っているのでどっちにせよ赤字ということなのだけれどもお金が戻ってくるのはうれしい。

■ 精算会っていうのはつまるところ今回の芝居に関わった役者達の最後の集まりだ。今後は、個人的につながりがあるかもしれないけれどもみんなで集まることはないだろう。中にはもう次の芝居の稽古をしている人たちもいる。次も一緒にやろうなんて話をしている人たちもいる。新宿のとあるビルの29階にある韓国料理のお店で集まってお酒を飲んで楽しんだ。僕はなんだかよくわからないけれど気後れしてしまった。「元気がないぞ」みたいなことを言われてしまったけれども、自分でもよく分からない気分だった。多分、次のことをかんがえていたせいだと思う。僕の『次』はどこにあるのか。今度はもっときちんと自分で責任の取れるポジションで芝居をやりたい。それはつまり自分が書いて自分が演出してといった立場なのだろうけれども。そんなことをぼんやりと考えていたからだろう。お店を出た後、もう終電で帰らないと決めた面々はカラオケに行こうとしていたが、僕は遠慮させてもらった。いろいろあった芝居だったけれど、みんないい人たちだった。とりあえず、これでこの前の芝居に関して全てのことが完全に終わった。

■ 話が前後するが、池袋から新宿へは時間があったので明治通りを歩いて行く事にした。都電荒川線を横目に見て早稲田付近を歩く。さらにまっすぐ明治通りを歩くといずれ靖国通りとぶつかる新宿5丁目交差点に出るのだけれども、その日は大久保通りまできてからそこをJR新大久保駅付近に向かって歩いてみた。その辺りを歩いたのは初めてだったのだけれども、なんといいますか雰囲気が違う場所だった。やけにハングル文字が多く歩いている人たちもどうも日本人ではなさそうな感じだ。新宿から新大久保にかけて、つまり歌舞伎町から大久保付近はどうも世界が変わる。今でこそ整備されているからなのかもしれないが、大久保とはかつて大窪と書いたらしく、つまり坂があるかなり入り組んだ土地だったと想像できる。坂は異界の境界。どこか猥雑な感じのする土地だ。そこもまた東京。僕はJR山手線の新大久保駅とJR中央線の大久保駅の間に位置する百人町の小さい路地を新宿に向かって歩いた。そこら辺りもここが新宿なのかと思うくらいひっそりとしている。やがて大きな通り(職安通り)にぶつかるともう誰もが知っている新宿の喧騒が広がる。まだ僕の知らない新宿はある。もっといろいろな場所を歩こう。

■ 24日(日)。ボーっとすごした。久しぶりに近くの公園に行った。この公園を縄張りにしている鳩がいて、その鳩たちにバターロールをあげたりしてみた。1匹、片方の羽が変な形をしている鳩がいて、そいつだけは見た目で判断できるので僕は「くちばし」と勝手に名づけている。気にしているから目に付くのかもしれないが、このくちばしはかなり賢い。あまりに多くの鳩が集まりすぎると面倒になるので僕は遠くの方に餌を投げる。そうすると大半の鳩はそっちへ飛ぶのだが、くちばしは行かない。僕の手元に餌が残っていることを知っていて他の鳩が減ったそのときに、それをねだるために寄ってくる。最初は偶然かと思ったが、くちばしだけは必ずそういう行動を取る。かといって僕を信頼しているわけではない。警戒はもちろんしている。不用意には近づいてこない。そんなくちばしが僕は好きだ。たまにしか公園に行かないが、そうやってくちばしとはかれこれ半年以上餌をやったりする関係だ。昨日はそうやって公園で鳩に餌をやったり部屋の掃除をして過ぎていった。それはそれで楽しい日だった。