東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『東京の神話』

■ 右足が痛い。正確にいうと右足の足の裏のつちふまずより外側の部分が痛い。歩くたびに捻挫をしたときに感じるような痛みが伴う。原因はおおよそ見当がついているから仕方がないんだけれども、それにしてもこれほど痛みが続くとは思いもしなかった。まぁフラフラと散歩する事を控えるとしても、どうしたって仕事に行く為にある程度歩くわけで、それをふまえたうえで最低限安静にしている状態で、この痛みが治っていく方向になるのか不安だ。しかし痛みを避けるために足を引きずって歩くのは情けない。

■ 関東圏に住む大学時代に演劇サークルにいた僕以外の4人が、この前の土曜日に先月亡くなったMの弔問に行っていた。そこでMの母親といろいろ話したそうだ。Mは持病の治療のための在宅療養をしながら、それなりに普通に生活していたという。それがちょっと胸が苦しいと思って病院に行ったら、入院することになった。肺に癌細胞が見つかったそうだ。酸素呼吸器をつけたMはそれでも元気だったらしいが、やがて昏睡状態になっていったらしい。それでも手を握ると握り返してくるし、何か言葉を発しようと唇を動かしたりしていたそうだ。その時がくる直前に、Mは笑ったという。駆けつけた姉妹はその笑顔の写真を撮ったそうだ。母親はまだその写真を見ることができないという。まだ何も片付けていないMの部屋に通された4人はそこで大学時代に芝居をしているMの写真を見せてもらったそうだ。Mは自分の私生活の話を家族にもあまりしなかったらしく、母親はこうやって弔問に訪れてくれたMの友人達に写真に写っているMについて聞いているとのことだ。「きっとこの時が一番楽しかったんだろうね」と母親は大学時代の写真を見ながら言ってくれたそうだ。そういう話を聞いているうちに、どうしよもない気持ちに打ちのめされる。早過ぎる。本当に早過ぎる死だ。

■ 日々は進む。いろいろなことに夢中になったり忘れたりしながら生きている。十勝毎日新聞のサイトにこういう記事を見つけるまで正直、この話題を忘れていた。僕が忘れていてもそこに関わる人には切実な事態は続いており、いろいろな要因で解決とは違う別の方向に収束していく。僕は徹底的に無関係で、その件についてふと何かを思ったとしても、実際にはそれにかかわりを持たず、ただ時間が過ぎて日々の生活に追われて忘れていく。この記事を見て思い出したように少なからぬショックを受けても、それは酷く安易で自分勝手な感傷なのだろうか。どうしたらこの先に行けるのか。

■ 昨日書いた、土地に執着する感覚について考えている矢先に今読んでいる「東京スタディーズ」に興味深い文章を発見する。それは東京へ通うために郊外に住む人々について書かれた若林幹夫さんの文章だ。長くなるけど引用。

『ある地域に暮らす人々の多くが当該の地域内部にではなく、そこから通勤可能な都心に就労しているということは、農村や伝統的な都市とは異なり、生活の糧を得るための生産、流通活動を通じて人々がその地域に結びつく契機が存在しないということだ。郊外住民にとってある地域に居住するということは、都心に通勤可能な同程度の条件の地域の中から選択可能な住居を一つ選択するという、言ってみれば偶有的な事態である。彼らにとって現住の居住地は「現住地」であっても、必ずしも「地元」ではないし、ましてや「ふるさと」などではない。そこでは「居住」は土地や地域への「帰属」でもなければ、地域的な共同性の紐帯でもない。』

まぁこれに直接該当するのは僕の家族で言うと親父に当るわけで、僕にとっては生まれてから今までの人生でもっとも長く住んでいるのは埼玉の実家なわけだけど(正確にいうと生まれた場所は別のところだけども物心ついたときに住んでいたのは埼玉なわけで)、しかし確かにこの土地に対する執着は微塵もない。むしろ北海道の帯広の方が、大学時代の印象からいってとてもいいし、将来隠居のような生活を送るなら埼玉よりも帯広がいいとさえ思える。上記の文面に書かれていることは僕にとっての埼玉なのだと思えて執着のないことの一因だと思えるわけで。まぁもちろん僕みたいに思う人ばかりでなく、もともと土着であったわけではなくても埼玉に深い思い入れがあり住んでいる人もいるのだろうけれども。で、さらにこんな興味深い文章もある。郊外の誕生のきっかけを生んでいる電車の存在に言及している石原千秋さんの文章だ。

『その頃(これは明治40年あたりを指すもの)、東京市内は市街電車の発達によって「下町、山の手の区別も、いつの間にかはっきりしなくなってしまっていた。」と言う。その結果、東京市内を下町と山の手に分ける二分法に代わって、東京を市街地(市内)と郊外とに切り分ける新しい二分法が人々に強く意識され始めたのである。その目安となったのが山手線だ』

江戸時代、江戸の町に暮らす人々は身分的な区別と共に居住地域も分かれていた。それが結果として山の手・下町を生んでいたとして、そういう区別が身分制度もなくなり、もともと下町に住んでいた商人達が山の手にも移動してきた明治になって分かりづらくなっていくことは理解できる。で、次にこういった区別の指標になったのが、市内と郊外でこれに大きな影響を与えたのが電車の存在だということ。

電車自体がかなり実用的に使われ始めたのは明治20年以降らしいが、以後、今と同じように東京に他の町から働く為に『通勤』するという概念が生まれた。で、そこから電車を利用する人々、その中でも東京に近いかどうかによって、また電車に乗る必要もない近い土地に住んでいる人々との間に新しい区別が生まれてきた。その近さや電車に乗る必要もないといったことは、それ相応の仕事をしていて金を持っていて身分の人であると考えられるわけですが。

■ 当然のように現在、『通勤』というものが存在しており、その『通勤』している大半の方が郊外に住み、上記引用文のとおりならば、ある土地に住みながらその土地に「帰属」していない生活を送っている。しかし、どこか意識の中に土地に対する執着はあるはずだ。それが例えば「家」というものすごい狭い範囲に収まっているのかもしれないが、じゃあ例えば借家に住んでいる人にとって「家」は執着すべき土地なのかと問われたら疑問も出てくる。明治時代以後培われたそういう概念とは、人間にとって深いものか浅いものか。いや、浅くはないんだろう。そうでなくては明治時代に建てられた靖国神社がこれほど人々にとって問題にはならないはずだし。何かあるはずだ。土地に執着できず、東京に働きにでて、そうやって生活している存在の中に生じるものが。埼京線は相変わらず人でいっぱいだ。新宿はそこに住んでいる人以上に、そこで働く人と、そこに遊びに来る人で溢れている。一つ仮説を立ててみる。大袈裟に言って新宿という土地に執着が生まれているのではないか。新宿だけではなく、池袋にも渋谷にも。そこに集う人にとって自分の家や町に対する執着に代わる土地に対する執着に似た感情があるのではないか。大袈裟な言い方が思い浮かんだんだけれども、つまり神話だ。新宿という神話。新宿という土地に自分が求めるナニかがあるという神話。それが『通勤』を肯定して新宿に人々を駆り立てるのではないか。郊外に住む人の土地への執着はそういう風にちょっと歪んでいるようなかたちをして出現しているのではないか。人為によって作られた神話。

■ 今はそんなことを思いながら、埼京線に乗る日々を過ごしている。