東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『映画な日々』

■ 昨日の夜勤明けに有楽町へ向かった。シャンテ・シネで上映しているテオ・アンゲロプス監督作品『エレニの旅』を観る。ちょっと雨が降って天気の悪い朝だったのに満員だった。やけに年齢層の高い客層だった。僕ぐらいの年齢の人は数えるほどしかおらず、ほとんどが50代前後の方々だった。情宣の仕方なのか、たんに若い人の興味を惹かなかったのかよく解らないがなんにせよ満員の客席だった。

■ きれいな映像だった。ワンカットがとても長まわしで、人物のアップを極力排して、遠巻きの映像をじっくりと写していた。その感じがしかし静かに迫力をだしていた。それにしても村を丸ごと作って、湖の底に沈めるとは思い切った事をやる。おそらく今の時代ならCGでやれないことはないだろうに。ただ、だからこそCGでは出せない重厚な感じがでているんだろう。別にCGが駄目とは全然思わないし、すべてをきちんとセットを作ってスケールでかくやりましたとかいうことを全面に売りにだされても「ああ、そうですか」としか思えないけれども、つまり適材適所とでもいいますか、ふさわしいものがふさわしい感じで使われているのがいいなと思うわけで、今回の映画ではきっとこういう風に作られていることが僕にはとてもふさわしくそして美しく感じたということでした。

■ 話の背景になっているギリシャという土地や1920〜40年代の時代のことが知識としてなかったので最初は戸惑ったけれども、それはそれでとても面白かった。この映画のホームページ上に載っている監督自身のコメントとして、20世紀という1つの世紀をみつめるための映画として本作を作ったとあり、

『カメラを正面から20世紀そのものに据えて、それを一人の女性の視点で、その数々の大きな事件を生きた女性の物語として描く、しかも、中心テーマをギリシャ人難民に据え、<家>の不在、歴史にふりまわされて移動する人を描く、これは私にとって新しい挑戦だった。』

と語っており、さらに主人公の女性であるエレニについて

『エレニは、難民の、追放された者の、放浪する者の、持たざる者の、肉体化した姿だ。幼くしてオデッサから追放され、独りで港で泣いているところを、ギリシャ人家族に拾われ、迎えられる。彼女の存在は、住むべき家や暮らすべき家がないことに決定づけられている。一つの世紀にわたって次から次に根を奪われつづけ、泊まるべき港、縋れるよすがを求めつづけ、慈悲のない運命を生きていく人間だ。』

 と書いてあることが印象に残った。で、思い出したのは以前、それは『Invitation』という雑誌の9・11についての特集記事(いつの号に載っていたかは失念)だったのだけれどもニューヨーク在住で9・11を実際に目の当たりにした坂本龍一さんがこう語っていたことだ。メモしてあったノートから抜粋。

 『たとえ偶然でも、ある出来事を見てしまう、そこに居合わせてしまうことって、責任を伴うんですよ。(中略)だからもし、近い将来、第2、3のテロがNYで起こって、自分が被害を負うとしても自分でNYに住むことを選んでいる以上は責任がある。被害を受けたくなかったらそこから逃げ出すという責任もある。ユダヤ人であったりパレスチナ人であったり、何人でもそうなんですが、アイデンティティなんて青っちょいことじゃなくて生きているだけでいろんなことが起こるんですよ。それがずっと人間の歴史で。自分がもしユダヤ人だったら「どこに住むか」ということが直接命に関わるわけで、彼らはそういうことを2000年もの間やってきた。どこに行くかとかそういうことを身近に感じていた』

 前半部分も重要だとは思うんだけど、それ以上に引っかかるのは最後の2文だし、ついで同じくNY在住のノンフィクションライターであるゲイ・タリーズのコメントはまた違う文脈の中にそれでも似たものを感じる。

『NYはもともと湾岸都市という事情から世界中から人々が集まってきた。そしてどこからやって来た人々も祖国に対する背信とも言うべき思いを抱えていて、そんな気持ちが生まれ故郷との決別につながった。』

生まれ育った土地にしても、慣れ親しんだ土地にしてもどの文章にも自分達が住む土地に関する思いがかなり強いと思う。もっというと土地に関することがアイデンティティに与える影響はとても大きいのではなかろうか。これは僕には欠けている部分だ。それはきっと四方を海に囲まれて他国と地続きになっていないという日本の特異な環境の中で、ぬくぬくと暮らしてきたことがかなりでかいのではないかと思われる。土地に対する意識の欠落。土地を追われることも流浪の生活もしたことがなければ、国から国へ移り住んだ経験もない。まぁ若干、埼玉や東京を離れて北海道にいたことはあるもののそのくらいしかない。20世紀をとらえなおすために作られた映画の焦点に《家》の不在があり、移民で構成された町が20世紀の世界的な中心都市であるニューヨークになったということなど、やはり土地に対する意識は重要な位置にあると思える。僕にそれが欠けてしまっているのなら、いや正確にいうならば無頓着になっているだけで、根底では無意識のうちに日本という土地、東京という土地に(それはナショナリズムとしてではなく)依存しているところがあるはずで、そこにこそ意識を尖らせなくてはならないと思えてくる。だからこそもっと東京を見つめてみることが必要なのだろうと思う。そこから生まれることが何かあるはずだ。

■ で、東京を見つめ直すヒントになるのではないかと思いビデオを借りることにした。今回、借りようと思ったのは外国の監督が撮った東京が写っている映画だ。外国の方の視点で東京を捉えていることで、僕たちが日頃、意識せずにいる東京という土地を気付かせてくれるのではないかと考えたからだ。で、ヴィム・ヴェンダース監督の「東京画」を借りた。小津安二郎監督へのオマージュとして作られたこの映画はヴィム・ヴェンダース自身が東京を訪れたときにカメラを廻したドキュメンタリーといった按配だ。とても面白かった。撮影当時それは1983年なので確かに今と比べてもかなり違う風景の東京だけれども、しかしどこか今と通じるものを映像からうけとることが出来る気がする。外国の人から見た東京。それはつまり意味を排した『そのもの自体』を捉えることにつながる。東京タワーは日本人にとっては建てられた歴史や意味合いからとてもシンボリックな存在ではあるけれども、外国の人からしてみるとそれはただの塔でしかなく、つまりそういった歴史や意味から遠ざかった零地点での視点で捉えられている東京の風景が画面上にはあると思えた。だから例えばそこには取り立てて東京を意識させる映像はなく、パチンコ店やゴルフ練習場、地下鉄の風景など、ごくごく普通の風景が映し出されているが、それでもしかしそれこそがまさにありのままの『東京』であって、時代を超えても変わらない『日本人』を捉えているように思える。つまり『日本』の『東京』という土地に生きる、意味や歴史に染まらないありのままの存在を垣間見せてくれるように思えた。その他にも小津安二郎さんへのオマージュでもあるので俳優の笠智衆さんや小津作品の撮影監督を務めた厚田雄春さんへのインタビューなどもあり、なんとも刺激的な映画だった。

■ で、もう一本、外国の方が東京を写した映画といえばこれだと思い『ロスト・イン・トランスレーション』を探したが不可解なことにレンタル店に置いてなかった。いや、おそらく置いてないことはなく、なぜならソファア・コッポラ監督作品である『ヴァージンスーサイズ』は当然のように置いてあったわけで(しかも2本も)、つまりただ単に僕の探し方がよろしくないと思われたが、30分くらいがんばって探してみたものの見つけることができなかったので、結局諦めることにした。

■ 店員に聞けば見つかったと思うけどそれをしなかったのは、探している途中で興味を惹かれた作品を見つけたからだ。その映画は『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』だ。この作品と監督のウェス・アンダーソンは前から名前だけは知っていたのだけれども見る機会がなく、ちょうど昨日から恵比寿で上映が始まった『ライフ・アクアティック』もかなり面白いという評判を聞いて(というか蓮賓重彦さんが面白いとどこかの映画評で書いていたのを読んだだけなのだけれども)、こりゃ予習しとかねばと思っていた矢先でして、これもタイミングだと思い、こちらを借りることにした。あと、まぁこじつける必要もないけれどどっちの作品にもビル・マーレイが出ているといった共通点があるのでとりあえずよしとしてみる。いやはや面白い。このくらいの距離感で作品が作られている映画が心地良いと思える。

■  とにかくこうやって映画三昧の1日を過ごしたのだった。