東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『紫陽花の季節/古谷さんに思うこと、再び』

■ どうやら関東も梅雨入りしたみたいで。雨が大好きってわけではないので、諸手を上げて歓迎はできないけれど、この季節もまた夏に向けての第一歩。なにより、紫陽花のきれいな季節の到来に胸が弾む。雨に濡れる紫陽花もまたきれいですから。JR王子駅から徒歩で行ける飛鳥山公園の紫陽花が好きだ。京浜東北線の車窓から見える一面の紫の世界。去年はそんな光景に見とれながらも結局、車窓からしかみれなかったが、今年は是非ともその場所をゆっくり散歩したい。

■ ところが喉が痛い。寒くなくなったことをいいことに薄着で寝ていたらどうも体調を崩したみたいだ。僕の風邪の初期症状は関節などの節々が妙に痛くなることで、喉の痛みくらいなら大丈夫かなと思っていたら、ここにきてどうも関節が痛くなってきた。そしてやけに寒い。ちょうど今、夕飯を食べ終わって、少し身体がポカポカしてきたものの、節々の痛みは消えない。問答無用で風邪の初期症状だ。それなのに夜勤。仕事場は常時空調が管理されていて、暑くもないし寒くもないんだけど、常に空調が動いているという状態が僕にはどうもいけない。暑いときは暑い方がいい。暑がりだけどクーラー利いている状況はあんまり好きではない。そりゃ、涼しいにこしたことはないんだけど。空調がずーっと動いているとどうも駄目だ。僕はかなり寝つきがいいほうで、割とどんな状況でもすぐに眠りにつけるんだけど、なぜかこの仕事場だけは寝つきが悪い。まぁ夜勤なので熟睡はいけないけど、仕事だし。

■ 以前も拙い感じで古谷実さんのことを書いたけど、とても興味深い考察が書かれたブログがあった。とても鋭い指摘だなぁと思いながら読ませて頂くと、どうしたって引用されているこの方の著書も気になってくる。連鎖とでもいうのだろうか。なんにしてもこうやって巡り合う書物との出会いというのは胸がときめく。

■ で、私なりにもう少し、古谷実さんの漫画について書いてみると、古谷さんの描くキャラクターは実に見事に『過剰』と『異常』を書き分けていると思われる。ヤフーの辞書で調べるところによると『過剰』は『[名・形動]必要な程度や数量を越えて多いこと。ありあまること。また、そのさま。』であり、『異常』は『[名・形動]普通と違っていること。正常でないこと。また、そのさま。』とある。以後書かれる文章のこの二語の使い分けはこれに順ずることにします。

■ で、次に続く区別は人道上問題があるのかもしれないのですが、自分の語彙の少なさからそのまま書いてしまいます。決して他意はないのですが、思うところがあった場合は謹んでお詫び申し上げます。

■ 続けます。古谷さんの漫画の主人公は『過剰』の側に分類されると思います。で、『過剰』は正常であります。様々な事象に対する反応が人一倍表現豊かであるだけで、とても正常だと思います。『稲中』の前野や井沢はだから『過剰』で、つまり正常です。少なくとも僕はそう思います。僕の見立てでは田中は『異常』です。他の主要メンバーに関してはただ単なる正常に分類されるかもしれません。田辺はワキガという部分的な『異常』を背負う正常ではないでしょうか。で、その他の各話で出てくるサブキャラクター達の大半は『異常』かもしくは田辺同様、一部に『異常』を抱える正常だと思います。部分的であれ『異常』を背負う正常な人もまた結局『異常』なのだと思います

■ で、古谷さんの漫画は『異常』(全体、もしくは一部)な人物を正常な前野達、主人公が『過剰』に見つめるという構図で綴られていると思います。異論反論ある方はいらっしゃると思います。あくまでも個人的な感想であります。

■ 特に『稲中』においては前野たちの正常さは『過剰』に表現された描写でぼやかされてしまっている感じはありますが、それでもその正常さはいたるところに顕著に現れます。女性の裸を見たがります。常に褒められたがります。一番になりたがります。面白いことは笑います。かりにそれが差別的なもの(相手の顔がどーにも可笑しいとか。回は忘れたんですがすごい顔の女とか、田原俊彦とか)でも面白ければ気にせず笑います。哀しいことは泣きます。痛いことは嫌がります。ワキガが臭ければ臭いとはっきりいいます。言い換えれば感情に対して非常に素直といえるかもしれません。それはもちろん自分の感情(前野なら前野というキャラクター、つきつめればこれが前野というキャラクターだろうと考える古谷さんの考えによる)に対して素直というだけで、人によっては不快に思うところもあると思います。だけどツボにはまる人にはこれほど痛快なことはないのだと思います。だから古谷さんの主人公たちを単純な奇人として作品を捉えてしますと、とても浅い読み方しかできないと思います。ただ、それでも全然アリなほど上質で下品な笑いが存在しているのが、また古谷さんの魅力ですが。

■ 現に終始『過剰』な動きをする前野や井沢も『異常』な田中に対しては、素直にひいてみたりしてます。『過剰』が『異常』を見つめる。そういった図式は『僕といっしょ』『グリーンヒル』でも同様だと思われます。『僕といっしょ』で浪人を続ける駄目なロクロウを笑い、究極のおっぱいを追求する男にひきまくり(その後、協力)、ブリーフ一枚で街をうろつく異常者に問答無用でパンチをくれます。これらは全て正常な行動だと思います。古谷実の漫画は『過剰』に覆われた正常で『異常』を笑い飛ばすところが軸になっていると思います。繰り返しますが、軸は常に正常(な目線)でした。

■ 『過剰』は『過剰』というだけにかなりエネルギーを消耗すると思います。それらのエネルギーを週刊で連載する漫画で書き続けるという現実的な消耗もさることながら、もっと中身としてもかなり消耗すると思います。なにせ彼らは正常なので。正常であるがゆえに『過剰』でありつづけることが難しくなってきたのかもしれません。さらにいうと世界を包む『異常』が、正常な人が行う『過剰』程度では追いつかなくなったのかもしれません。もしくは『異常』と呼ばれているものが実は『現実』と同一線上にあることに気づいた(オウム以後、関西大地震以後、9・11以後、表現を生業にしている人が明らかにその表現を見つめなおしているのと同様に、どこかのタイミングで)のかもしれません。古谷さんは『正常』を『過剰』で覆ったのと同様に『異常』もずいぶんな『過剰』で覆っていました。その『過剰』さが笑いに繋がっていたのだと思いますが。ただ冷静になって『異常』を覆っている『過剰』を取り除くと、そこには『現実』が存在していたのではないでしょうか。過去の作品でそういった『過剰』が成り立っていたのは、『過剰』を巧みに扱える漫画という表現媒体と古谷さんの画力があってのものであることに間違いないと思いますが。ただ『異常』の方が実はこの世界の現実であると気づいたとき、『異常』に対する対義語として『過剰』が成り立たないと思ったのかもしれません。

■ 『ヒミズ』では『過剰』を廃した正常な主人公が『異常』を含む現実を徹底して見続けます。ただそういったあまりにも純粋な正常を、物語として帰結させるにはああいった形しか見つからなかったのかもしれません。そういった意味で『稲中』の前野や『僕といっしょ』のすぐ夫のように『過剰』があるから笑い飛ばせて、泣けるといったことさえ奪われた住田はあまりにもつらい立場に追いやられてしまったのかもしれません。しかし住田は『過剰』がなくなっただけによりいっそう、僕たちと変わらない普通の存在になっていました。ここまでくれば分かりますが、住田も前野もすぐ夫は、僕ら読者と合わせ鏡な存在なのです。僕らは決して田中ではない。まぁ確かに田中ではないと思いますが。

■ 『シガラテ』はタラレバを言えば外部からの力で『ヒミズ』以上の惨劇を迎えたかもしれない主人公萩野(だから僕ら読者)の結果として平凡な人生を、それまでの作品以上に正常も過剰も異常も同列で描かれていたと思います。僕には古谷さんがすべてのものの零地点、つまり原点とも言える立ち位置で、初めて書いた作品のように感じました。笑いもあり、異常もある。すべて等価。なんでも平等に存在する『リアルな世界』。

■ 思いどおりにいったりいかない世界で、欲望と期待とが入り混じった中で、結局凡庸な生活を送る。そこには現実に対する諦念が確実に存在している。でも、その諦念を自覚しながら、それでも生き続ける。ありのままの肯定。それが古谷さんという正常な人が現時点で出した結論のように思いました。

■ あくまでも個人的な意見であります。駄文失礼しました。とにかく古谷さんの作品は本当に面白いというわけであります。