東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『スポーツ観戦ということ』

■ そういったわけで、僕も昨日の夜はサッカー中継を見ていたのですが、ワールドカップに出場を決めたことは素晴らしいなと思いながら、それでも日本チームのサッカーに今ひとつ強さを感じられない気持ちもありました。まぁあまりにもど素人なものの意見なので、あれですが。その中でとにかく大黒がよかった。柳沢の得点だって、前半でほとんど出来なかった攻撃的なプレッシャーを後半開始直後から大黒がビシビシと北朝鮮にぶちかましていたから生まれたものだと思うし、なんていうか、そういったものの結果、大黒が北朝鮮ディフェンダー陣にとってものすごい脅威だったと思う。なにせあの顔に、あのガタイであの突進。2点目のゴールにしたってあれはおこぼれをもらったゴールではなく、そのゴールの前から、紙一重のタイミングでオフサイドにはなってはいたものの、前方へ走り出すことが数回あり間違いなく大黒のそういうダッシュが積み重なって生み出した得点だったと思う。

■ ただ、もちろんワールドカップ出場を果たしたわけで、うれしいなと思ったりするものの、「日本、日本」の掛け声とともにみんなで青い服を着て一心不乱に応援したり、嬉しがったりする気には正直ならないのは、なんていうか、そういう観点でスポーツを見たいと思ったことがあんまりないからで、オリンピックにしても野球にしてもどこか醒めてみてしまう部分が自分の中にあるなぁと自覚している。そういう風に応援する姿勢をまったく否定する気はないものの、なんだかわだかまりみたいな感覚がある。

蓮實重彦さんの「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護」(青土社)はその感覚をきちんと説明してくれた。なぜに人はスポーツを観るのか。で、蓮實さんが論じるスポーツ観戦論からいうと、得点や順番にこだわる応援やマスメディアの報道が、如何に真にスポーツを観るという行為から遠く離れているものか(かといってもちろんまったくそれらを否定するというわけではなくて)を痛快な文章で「批評」している。

『スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです。』

 ぼんやりとでもこういった感覚を以前から持っていた気がするけれど、こうもきちんと文章で示してあるのを見たのは初めてで、ああ、まさにそういうことなんだなぁと実感する。それにしても蓮實重彦さんの文章は痛快だ。たとえばこんな一文。

田淵幸一の唯一の不幸は、その存在がキャッチャー・マスクよりも大きすぎたことだ。』

 これを読んだときは思わず笑ってしまいました。これは表面だけを見れば直喩だけど、文脈をたどれば、田淵幸一を肯定しながら、一面で田淵幸一のキャッチャーとしての資質を捕らえた暗喩にもなっている。しかも言いえて妙。思わず唸って、そして笑ってしまう。

■ こういった文章は賛否両論あるんだと思うけど、とにかく僕には刺激的で考えるところがいっぱいあった。それは特に、じゃあスポーツを観る事と芝居を見ることの違いとはなんなのかといったことで、その他にも写真や映画などと芝居の違いはなんなのかという違いについてもう一度考えることで、どうして僕は芝居をやっているのかを考えるきっかけを与えてくれた気がした。もっとそういうことをきちんと考えようと思う。