東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『小説版三月の5日間』

■ TBSのテレビ番組『リンカーン』2時間特番で芸能人の運試しをするという企画、運が悪いと熱湯の入ったポットのお湯を素足にかけられるというものがあり、さまぁーず三村が足にお湯をかけられていた。お湯がかかるまでそのポットに熱湯が入っているかは判らない設定なのだけど、順番や雰囲気でどうも熱湯が入っていると察した三村は足を押さえるダウンタウン浜田にお手柔らかにという感じで泣きついた。その時泣きついて顔がカメラから見えない角度になってしまった三村にダウンタウン松本が『カメラに映らないから』と声をかけていた。発言するっていうより割と小声で注意しているように聞こえた。それほど大したことではないのでスルーされたのだけど、なんとなくダウンタウン松本の人間性を垣間見た気がした。それは芸人やテレビ人としての性分というより、もっと根本的なものに近いなにか。そもそもこの人、テレビと実生活でスタンスを変えていない気がする。すごく臆病で、真面目で、自分の考えとかポリシーみたいなものを持っている人で、それを正直にテレビで出している人なんだと思う。それをいつもは笑いに昇華して言葉にしていると思うんだけど、なんかこの時だけは、あまりに咄嗟のことだったのでポッと無意識に言葉が口をついていたみたいな、そんな印象。


■ あと、『リンカーン』におけるキャイーン天野ひろゆきの存在が気になって仕方がない。当初はメーン司会ダウンタウン浜田のアシスタント的な地位もあったのだけど、その辺に落ち着くことはなかった。同じく2時間特番の中で、『リンカーン』に出演しているレギュラー陣が自腹でお金を出しあうシーンで、えらく高い金額を払おうとした天野がみんなに突っ込まれて『お金くらいしか貢献できないから』といったことをポツリともらしたのがなんか切なかった。『もしもツアーズ』くらい安心してつっこみをやれるポジションがあればいいんだろうけど、なにせ『リンカーン』は前に出る人たちが多い。今後も勝手に『リンカーン』における天野の立ち位置を観察していきたい。


■ 夜勤明け、午前中はとてもいい天気だった。図書館で『新潮』の12月号を借りる。チェルフィッチュ岡田利規さんが書いた『三月の5日間』の小説版を読むため。短編だった。芝居とは違い、六本木のライブハウスに行くまでの経緯が丹念に描かれている。小説の冒頭部分の書き方は神の目線、つまり第三者の目線から描かれたもので、芝居では、舞台の出てくる役者が「ここに東って人がいるんですけどぉ」といいながら役どころに対して客観的な立ち位置をとっていたけど、そういう距離感とは明らかに異なっていた。


■ そういう感じで書いていくのかなぁと思いきや、突如『僕』や『私』で始まる一人称のチェルフィッチュ独特の語り口の文章が展開される。以後、第三者の目はたまに少しだけ挿入される程度になっていく。


■ 芝居では演じられていたデモに参加する人の話がなかったり、ミッフィーというハンドルネームの女の独白も語りが火星に辿り着く前に終わったりと、芝居と違う点はいくつも見受けられた。基本的にはホテルに行った男女の話だけが、それぞれの一人称の視点で入れ替わり語られていく。一つ気になったのが、芝居ではホテルに行く男はミノベという名の男だとあらかじめ語られていたのに、小説では男は『僕』や『彼』としか書かれておらず特定できないようになっていた点。ミノベという名前がまったく出ていないのかといえば、そういうわけではなく、小説の冒頭、芝居ではさらっと語られていたライブハウスへ向かう描写においてライブハウスに向かう男6人は名前もはっきりと書かれていて、むしろ最初だけを読めば芝居よりも丁寧にその6人の描写があるにも関わらず、だ。小説だけを読むとあえてミノベと特定していないように見える。役者という存在がない小説において、そういうところに演劇とはまた異なる『距離感』の表現があったのかもしれない。


■ 夕方になってから雨が降り出してきた。日中の陽気でほどよく熱を帯びていたアスファルトが降りだした雨で瞬間的に熱を奪われていくときの独特のあの雨の匂いがした。夏の夕立によくあるあの匂い。そういうところにも季節の移り変わりを感じる。暖かくなってきた。


■ 夜に家常さんから電話があり、いろいろ話す。芝居について。集団でものを作ることについて。芝居では再演をしないかぎり、一回ごとに発表する作品が変わっていくわけで、では何をもってそれでもその集団の芝居をもう一度観に行きたいと思うのかといえば、それは作り手の持つセンスを共有したいという欲求なのではないか。一度やった作品をもう上演しないとしても、その作品を作った経験をどういう風に次の作品に、というか集団にフィードバックしていくか。やりっぱなりで終わってしまうのではあまりにもったいない。もったいないけどどういう風にフィードバックできるかっていうのは難しいところでもある。集団のあり方だ。演出家と役者の関係。集団における作り手同士のコンセンサスの取り方。いずれにしてもまずは対話が必要なんだろう。


■ 観た作品。

大島渚『少年』

「クリスマスだね」「キリストが死んだ日でしょ」「違うよ、キリストが生まれたんだよ、1966年前に」そういう台詞の投げ合いでこの映画の時代設定が突如明確になる。日の丸がタイトルバックで使われているこの映画において時代設定を語る方法にキリストを用いるところに面白さを感じた。