東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『春分の日』

■ 『三月の5日間』についてインターネットで検索して見ると、個人で書いている初演時のレビューなどが読めた。それによると初演では役者は全員メガネをかけており、芝居のラストでは山手線のホームの騒音が音響として流れたのだという。再演の今回は全員がメガネというわけではなかったし、ラストもホテルで4泊5日を共にした男女の別れ際の行動(ホテル代の清算)を一瞬だけ演じて終わるというものだった。


■ 初演より再演の方が優れているなんて言えるものではない。別物と考えるほうがいい。そもそも初演を観ていない時点でいくらレビューを読んだとしても比べるなどということは不可能。ただ、再演をするってことは何かしら作り手の意図があるはず。ある時間を経て、あえて今、その戯曲を上演する意図が。上演に際して変わったところ変わらなかったところいろいろあるのだろうけど、変わったところにこそその意図のようなものが見え隠れするのではないかと思うわけです。


■ 僕個人としては、今回のスパッと切ったような終わり方はよかった。それまでがゆったりと流れるような感じだったところでああいう終わり方をされるとすごく爽快な感じ。ラストシーンの照明は付くときと消えるときにガシャンと音がなったのだけど、あれは意図的なものなのか、それとも照明器具の都合によるものなのか。なんにせよ、あの音さえもまた一つの音響効果のような役割を果たしていたと思う。初演のレビューによると『長い暗転の間、電車のホームの騒音が流れる』とあり、そこに流れる時間は明らかに異なっている。初演には初演の時の流れがあったのだろう。では、なぜ変わったのか。そこに作り手の意図が何かしらあるのではないか。


■ ただ、休憩は初演の際もあったらしい。決して長い芝居ではない。前半50分。後半30分。間にはさまれる休憩は20分。芝居の設定や技術的なことでどうしても休憩が必要というわけではなさそうだったし、観る側としても80分くらいなら休憩などそれほど必要には感じない。それでも休憩はあえてあった。こうなってくるとおそらくこの休憩をふまえた100分こそが『三月の5日間』なのではないのかと思えてくる。戯曲を読みたくなった。例えば台詞にもしくはト書きに何かしら作り手の意図を見出す手がかりがあるかもしれない。小説版も出ているのでそれも読みたくなった。とにかく興味の尽きない作品です。


■ 野球で日本チームが優勝した。テレビで見ていた。日本チーム、キューバチームのプレーは見ごたえがあったけど、どうも実況をしているアナウンサーのコメントが気になって集中できなかった。なんとなく大仰。日本寄りのアナウンスになるのは仕方がないにしても、審判に関するコメントはちょっといかがなものか。『私たちはこの大会が続く限り、あの審判の存在を忘れることはないでしょう』とか言ってた。すごいことを言う。


■ 9回表にイチローのヒットでホームに滑り込んだ川崎がキャッチャーとクロスプレーになったとき、ぱっと見アウトに思えた。しかし判定はセーフ。日本には貴重な追加点が入った。結果の良し悪しあれ、ミスジャッジってものはでるときはでてしまう。明らかに日本の抗議があっていて、正義はこちらにあるというときはものすごく主張する。しかし、なんとなくミスジャッジだけど、そのおかげで日本チームが有利になる可能性だってあるわけだ。あのクロスプレーはまさにそのものすごく捩じれて複雑な状況になりかけた。VTRを何度も見る立場にあるアナウンサーや解説者もだからその瞬間コメントを失った。結果的には走者川崎の右手がホームベースを触っていて、スローVTRを見ても間違いなくセーフだった。息を吹き返したアナウンサーは『この主審はよく見てくれていた、いい判定をしてくれた』と興奮しながらまくし立てた。落ち着きを取り戻してからは川崎のスライディングを褒めたりもしていたけど、何かすごく嫌なものを観た気分だった。


■ テレビカメラによる中継が登場して以来、スポーツにおけるジャッジの問題っていうのはすごく複雑な形になっていると思う。そりゃ確かに肉眼ではミスもある。ミスは無いほうがいい。だけど、それを後から記録された映像でいろいろ言うことはすでに『スポーツ』の域を超えた別のものになってしまっている。蓮實重彦さんはスポーツついて


『スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めてスポーツを見る。文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです。』


と、語っている。ジャッジの存在とはその野蛮の出現する舞台をルールという縛りで文化的なものにつなぎとめるためのものだと思う。ならばジャッジとは舞台の上でスポーツをする主体がスムーズに競技をできるように進行するためだけにあればいいと思う。だからスポーツをする主体にとってだけ忠実で公平であればいいと思う。ところがスポーツは観客という外部がいる。観客はしばしば、自分も主体の一員であると思ってしまいがちになる。ミスジャッジがあった場合、まるで自分のことのように怒り、自分の正義を主張する。だけどそれは違うと僕は思う。観客はやはり観客に過ぎないのだ。今回のミスジャッジの件は、主体である選手たち監督たちの抗議が終了した時点でいったん終わった。当然、ミスジャッジ自体は主体にとって申し訳ないことだから、今後増えないように改善されるべきであることは判る。でも、それと外部がいつまでもそのことを口にすることは違う。とくにスポーツを報道するメディア媒体は主体ではなく、かつ客体でもないという特殊な立場にいるわけなので、その辺に関しては個人の感情を抜きにして慎重に言葉を選ぶべきだと思う。オリンピックやワールドカップなど国際試合の舞台が多くなっている昨今では、どこか自分は主体だと勘違いしているようなスポーツ報道が目に付く。すごく嫌な気分だ。ちょっとまて、アナウンサーや報道は観客の意見を代弁するべきだろうという意見もありそうだけど、それはスポーツをする主体を無視している気がする。スポーツ報道とはスポーツする主体の野蛮が出現した場面を物語るためにあればいい。いつからか外部の観客に対して親切な報道が増えてしまっている。すごく奇妙なことだと思う。スポーツ観戦においては観客という外部はあくまで主体がみせる野蛮さを楽しめればそれでいいと僕は思う。確かに多少は日本に勝ってほしいという気持ちがなくもないけど、鍛え抜かれた肉体の持ち主たちの優れたプレーが見られるのならば、別に日本にこだわる理由はどこにもない。スポーツは好きだ。スポーツを観ることも好きだ。だけどスポーツ観戦における現在のメディアの報道の仕方にはすごく疑問を感じる。ただ、そういう観客に親切な報道を望んでいる受け手がいるということも忘れてはならないのだと思う。


■ 観たDVDや聞いたCDなど。

成瀬巳喜男監督『浮雲
SKETCH SHOW 『tronika

主演の高峰秀子さんと森雅之さんの目の力っていうのはものすごい。あの目の力が映画に流れている緊張感を作り出している気がする。