東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『明日のための覚書」

■ 今日、宮城を中心に地震があったけど、北は北海道から南は静岡辺りまでと東日本全域を覆った地震で、その規模にちょっと驚いた。僕はその時、家にいて、埼玉は強くはないものの妙な横揺れで気持ち悪かった。震度6を記録したところもあったようだけど眼に見える被害はそれほどでもないので、耐震建築がものすごく普及しているのだろうかと驚く。だって震度6でしょ。ただ問題はその後で、今回も電車などの交通機関で運転を見送る地域があり、電車が走らず困っている方々をニュースは映していたけどこれもまた震災の形といえばそうなのだろう。地震大国だな。


■ 昨日、髪をばっさりと切った。もう伸びきった髪に限界だった。暑いし。最近髪を切ってもらっている雰囲気が好きな美容師さんにまた髪を切ってもらう。切っているときにペットの話になり、その美容師さんは犬が苦手という話になった。


■ なぜ駄目なのかを聞くと「話せば長くなるんです」と前置きをして美容師さんが20代初めの頃に体験した『犬屋敷』と『犬屋敷ババァ』の存在を語った。「その屋敷に行くと、きっと誰もが犬嫌いになりますよ」と美容師さんは言うものの、話せば長くなるというその話は、そうやって妖しい魅力を醸しながらも結局全容は明かされなかった。『犬屋敷』と『犬屋敷ババァ』。一体どういう屋敷とババァなのか。


■ 唐突だけど明日、夜勤明けに谷川さんと映像の撮影に行く。JR山手線を軸に電車やホーム、その他諸々と新宿の風景を撮りに行く。基本は風景。特に物語など意識せず。ありのままの風景を撮ってくるつもり。もちろん撮りたい素材はある。それは自動改札機を通る人だったり、電車を待つ人々だったり、電車に乗る人だったり、ホームの階段やエスカレーターを上り降りする人だったりする。


■ 例えば、江戸時代の人がどういうわけかこの時代にタイムスリップしてきたとき、いきなり駅のホームに放り出されたら果たして電車に乗れるか。自動改札機を渡れるか。答えは限りなくノーではないか。なぜなら江戸時代の人は電車に乗ることや自動改札機を通るという『運動』を知らないから。これは僕が思っていることだけど、そういった動きは極めて『現代の運動』のように思う。電車に乗り込むときのあの理路整然と並び、降りる人のために入り口を開けて、そして入り込む運動。ある人はつり革につかまる。ドアによりかかる。椅子に座る。そしてまた電車から降りる運動。エスカレーターに乗る。左側に位置する人は動かずに歩く人のために右側を開ける運動。自動改札機は決められた音楽のようなリズムを刻みながら切符を差し込んだ人を外へ、そして内側へ通す。そこに現代にしかない『運動』があるように思う。それをそのまま切り取れないだろうか。それを切り取ることが『イマ』なのかと言われたらまだ分からないけど、とにかく僕はそこを切り取りたい。


■ 新宿に関しては谷川さんに「初めて新宿を訪れた人が見る新宿」をイメージしてほしいとお願いした。それはつまり土地勘を持たない、土地に由来しない人が見つめる新宿。それはもしかしたら「るるぶ」といった雑誌を眺めて、テレビの情報番組で紹介されている憧れの街を夢見てやってきた若者の目線かもしれない。彼らにとってのALTAや歌舞伎町はリアル手触りのある存在ではなく、目や耳にした情報の中だけで育まれた世界でしかない。それはつまり自分の意識で見つめた新宿ではなく「記号」としての新宿ではないか。そういう風に新宿を切り取れないか。


■ ここ数日、ロラン・バルト著の『記号の国』(みすず書房)を読んでいる。きっかけは北田暁大さんの『『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版)の中のこの文章に惹かれたからだ。

「なぜ、日本なのか。なぜならエクリチュ−ルの国だからである。日本の記号は力強い。みごとに規則化され、配置され、明示されているけれども、けっして自然らしく見せかけたり、理にかなったものになったりしていない。日本の記号は空虚である。そのシニフィエは逃れ去ってゆく。見返りを求めずに支配するシニフィアンの根底には、神も真実もまったくみられない。」

掲載されていたこの文章は『記号の国』の前文に書かれたものを抜粋したものだ。


ロラン・バルトに関してまったく無知だったけど、とにかくこの言葉に惹かれてこの本を購入して、今、少しずつ読んでいる。日本を訪れたバルトが日本に魅了され、日本での経験を文章にまとめたこの本。日本の経験といってもそれは具体的な何かではなく、例えばパチンコをやっている人や箸での食生活に関して等、ごく身近なものを当然と使っている日本人を見つめてバルトが思った文章である。うまくいえないけどそこには僕が今、舞台で「表現」したいものが含まれているような気がしている。

「この国では、シニフィアンの支配がきわめて大きく、あまりに言葉を凌駕しているので、言葉の不透明さにかかわらず、いや、ときにはその不透明さゆえに、記号のやりとりは魅力的な豊饒さや変わりやすさや繊細さたもちつづけている。その理由は、あの国ではヒステリーもナルシシズムもなく、純粋なエロティックなねらいー微妙に慎ましいものではあるがーそれにしたがって身体が存在し、誇示され、はたらきかけ、あたえられているからである。」


■ ここでバルトが書いていることは、それは蓮實重彦さんが『東京物語』の遊覧バスの場面を「あくまでも緩慢なバスの滑走運動が説話論的な持続にまったく異質な時間を導入している」と語ったことや、タルコフスキーの『惑星ソラリス』の首都高を延々と走り続ける車のシーンが持つ魅力と同等のものではないのか。そこにはバスを越えた、首都高を越えた「運動」の持つ心地よさがあるように思う。それは渡辺直巳さんが語っている小説についての定義の言葉とも一致すると思う。

「小説と言うのは、「叙述」だけがそこにあるものである。潜在していた物を汲み上げる…それは機知の内から未知を見出すことだ。」

この小説の部分を演劇に変えても成り立つと僕は思っている。自動改札や新宿を徹底的に、もしくは意味を排して見つめる先にその意味を超えた記号としての魅力的な『運動』が備わっているように僕には思う。だからそれを映像に撮りたい。そしてその映像を使った魅力的な「運動」の溢れる舞台を作りたい。


■ ただ、これはあくまで明日の撮影のための覚書。谷川さんにもこのことはある程度言うけれど、ガチガチにこれを撮ってくれとお願いする気は毛頭ない。全ては明日、撮影する現場にある。僕は「運動」が存在しそうな場所にアンテナを立てて出来るだけ近づくだけ。あとは谷川さんのカメラを向ける視線があり、その場所にある「運動」が映像に残る。それできっといいのだと思う。どうなるかはやってみないとわからない。とにかくまずは撮影あるのみだ。


■ なんにせよ、楽しみで仕方がない。何かドキドキする。明日が本当に楽しみだ。