東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『ジャカランダと破壊』

tokyomoon2010-03-20

とても暖かい土曜日。注射をしてもらうために犬を近所の動物病院へ連れて行く。近所とはいえ徒歩10数分かかるのだけど、まだ散歩させるわけにもいかず、手頃なケージがあるわけでもなかったので、抱っこして連れて行くのだけど、これが、また、僕の抱き方がへたくそなのだろうけれどきつい。犬にとってもほぼ初めてみる外の風景であり、それだけでもそわそわするだろうに、僕の抱き方が安定してないせいで、ちょいちょい暴れる。両腕がつりそうになる。動物病院で体重を測ってもらったところ7キロを超えていた。そりゃ重いわけである。順調にでかくなっていく犬。最近は顎を的確に噛み付く術を覚えつつあり戦慄さえしている。



しりあがり寿さんの『方舟』が面白かった私が、なんとなくamazonを見ていたわけでありますが、そこで『ジャカランダ』という作品を知り、『方舟』と異なる描き方で『終わり』を描いてあるというような紹介があり、気が付けば注文をしていたのでありました。

300ページ弱ある本作の8〜9割が混沌とした都市の壊滅を描いているというだけで衝撃的。説明なく圧倒的な破壊が延々と続く。『方舟』が大雨であり、『ジャカランダ』が巨大な樹木の異様なまでの成長によって引き起こされる破壊であるわけで、どちらも抗いようのない自然の猛威と括ってしまえば共通になるのだろうけれど、描写の仕方がまったくといっていい程、異なる。『方舟』が『静』ならば『ジャカランダ』は『動』。

どちらの作品も、大きな力の前でなす術のない人間を描いているけれど、『ジャカランダ』の場合、作品の冒頭部分が、とある電車内での暴力事件から始まる。読んでいけば、そのシーンは本作の核となる部分とは無関係であることがわかるのだけど、とはいえ300ページ弱の作品のうち8〜9割が破壊を描くことに費やされる中で、残りの1割ほどの部分となる冒頭とラストのうちの、冒頭にあえてそれを持ってくるには明らかに何かしらの意図があると読むべきで、思うにそれはどのような『死』であれ、その前で、人は、平等に無力であることを描こうとしているのではないだろうか。

読み終えて、意外だったのは『ジャカランダ』が『方舟』よりも後に作られた作品だということ。『方舟』は2000年の作品。『ジャカランダ』は2005年。『方舟』において、おそらく東京と思われる都市が描かれるもののそれははっきりとは明記されておらず、記号化された都市と、都市とは別のある農村と、あらゆるものが大雨に飲み込まれるそのグローバルな視野と、ある種の諦念によって『死』を受け入れるように見える人々の描かれ方が、どこか世紀末のあの時代の作品として成立しているように思えた。『ジャカランダ』ははっきりと東京が舞台となっており、世田谷の住宅街から渋谷、新宿といった場所が暴力的に破壊され、『死』に直面した人たちは抗おうともがき、そこに猛烈な力があふれている。その力が、僕には2005年という時代性とリンクしてこないでいて、むしろ1990年代とかに作られた作品なのかと思っていた。なぜそう思ったのか。一方で、『方舟』によって終わりを描いた作者が、後年に再び『終わり』を描こうと思い立ち、その描き方をこれほどの力で描写した理由と言うものをもう少しきちんと考えたい。それとやはりあのラストも考えねばならない。



J-WAVEで流れていたSpangle call Lilli lineの『dreamer』を1回聴いたら、すごく惹かれてしまい思わずタワーレコードへ。調べれば、この曲のプロデュースに相対性理論のギタリストの永井さんが携わっているとのことで、僕は、どうもその方が好まれるギターのフレーズが好きなのだと思われる。